人の心について、とりあえず考察してみる。
心が優しいとはどういうことだろうか。
自分は心優しい人間であると自負して、それを誇っていて、それと比べて自分以外の者たちは優しくないと他を蔑んで、周りの人たちをナチュラルに見下している人がいるとして、そういう人は本当に優しいのだろうか。
肯定されながら育った人はそうなりがちである。
確かに、肯定されながら育った人ならではの優しさというのはある。
肯定されながら育った人には、自己愛の投影としての対象愛というのは、あるだろう。
俺の溢れんばかりの愛が、なぜ分からない、と。
自信があるだけに。
しかし否定されながら育った人は、肯定されながら育った人と比べて、幼少の頃より痛みを経験してきているだけに、人の痛みが分かる。
しかも、心の古い層で、心の深いレベルで、人の痛みが分かる。
だから、人の心情に配慮できる。
その意味で言えば、否定されながら育った人のほうが優しいとも言えるだろう。
肯定されながら育った人が大人になって社会に出てから地獄を見たとしても、人の痛みが分かるレベルが浅い。
そのように、否定されながら育った人には、見えるだろう。
肯定されながら育った人の優しさと否定されながら育った人の優しさは、どっちが本物の優しさなのだろうか。
どっちも優しさであろう、優しさの種類が違うだけで。
だから、肯定されながら育った側と、否定されながら育った側と、お互いに、相手のことを、優しさがないと非難することはできる。
つまり、自分は優しいか優しくないか、真か偽か、命題の真偽を反転させる思考を散々やった挙句に、同じ一つの命題について真とも偽とも二通りに言えることに気付いて、もしも正確さを期するならば、真であると同時に偽であるという矛盾を矛盾のままで、言い表すために、真か偽か、白か黒か、ハッキリさせない、グレーな言い方が、できるようにならなければならない、という結論に至って、グレーな表現をひねり出すために、苦心惨憺することからスタートしようとなるわけだ。
人間存在は、自分本位と他人本位という矛盾し合う二つに引き裂かれつつある存在である、と精神科医内沼幸雄が述べている。
人は、誰かを、自分本位であると非難したくなって、強く非難することがある。
しかし、自分を棚に上げて誰かを批判する前に、誰かが自分本位であるか否かについて、立ち止まって考えたなら、自分本位であるという判断が真であると同時に偽であるという矛盾にこそ、正しい答えがあることに、気付く、ということを、内沼幸雄の議論は、含意しているのだ。
このようなことは、考えるまでもない当たり前のこととして、女性の直感は、じつは知っている。
女性は気持ちが複雑で、感情が矛盾した感覚を同時に感じていて、女性の心にはそれに気付いているレベルがある。
だから、白黒思考を、超越して、グレーをグレーのままにしつつ、感じているままを考えに変換することなく言葉にすることができるのだ。
言葉遣いの正確さを、真に追求するなら、白か黒かの二項対立を超克する、グレーにこそ、正確な正しさがあることに、思い当たることになる。
以上が僕が気付くべきことだった。
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