mixiユーザー(id:766386)

2021年09月21日17:53

133 view

哲学とスピリチュアリズム

東日本大震災の復旧作業に当たった人たちが口を揃えて、海上に人影を見たとかがれきの中から人の声が聞こえたとか言っていたらしい。

統合失調症患者にとって霊が視覚映像とか聴覚映像とかとして現れる場合にはそれは幻覚とか幻聴とかと呼ばれるわけだけど、健常者たちが口を揃えて見たとか聞いたとか言っているわけだ。

僕も母が死んで四十九日まで死体と共に過ごして怖い思いをして、その後の数年間は、家に取り憑いた霊の仕業で家がきしむ音がするというラップ現象に苦しめられていたわけで、恐怖する心が恐怖の対象を出現させるという意味では、恐怖に満ちた目つきで世界を見詰めることほど恐ろしいことはないという引き寄せの法則が成り立っていると言えよう。

人はしらす干しをご飯に掛けて食べてしらすを大量殺戮してもしらすの怨霊に祟られたりしないわけで、しらすの霊に怯えない限りでしらすの怨念は物質界に何らの影響力も行使し得ない。

人の心の中に人が住んでいて、人は人を恐れることをやめることはできないからこそ、人にとって人は現実の脅威になるのだ。

このように考えてくれば、世界とは世界を恐れる心が映し出した幻影なのかもしれないと考えたくもなる。

対人恐怖症患者にとって、恐怖は畏怖であり、畏怖は畏敬の念であり、憧れであり、恐怖の対象にこそ魅入られてしまうことによって、人は人という恐怖の対象を現象させることを望んで、望んだ通りの現実を招き寄せて、人と人とのネットワークの中で生きることを望んでいるからこそ、その通りの現実を招き寄せているだけなのに、自分の心が分かっていなくて、望んでいなかった結果になったと運命を嘆く、そんな愚かな存在が人間なのではないか。

ユングの集合的無意識の概念というのは、人の心の中に人が住んでいて、人と人とのネットワークが世界を作り出していて、共同主観と共に客観は生起する、という廣松渉の共同主観性の哲学とも相通ずるものがあるだろう。

主観と客観が共起するという考え方は、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の世界観にも見られるのだけど、一つの心という意志が表象する主観と表象される客観に自己分裂して相互主観性が成立した結果として生み出された、心が外側から表面的に眺められた姿である表象としての世界こそ、物象としての世界なのだ、という考え方だ。

ショーペンハウアーは、植物は表象する主観ではなく、目を持つ動物の誕生と共に主観は誕生して、主観の相関者としての客観世界も誕生したのだと言う。

しかし、ここには疑義を差し挟む余地はある。

目は、たとえば牛からくり抜いた摘出眼を解剖すれば分かるように、カメラレンズと同構造をしていて、凸レンズに対応する部位が水晶体という組織で、水晶体を端から引っ張って光の屈折率を変えてピント調節する筋肉が毛様体と呼ばれる組織で、焦点を結ぶフィルムに該当する部位である網膜という神経組織が感光して興奮して網膜像を結ぶようになっている。

このように目は、細胞の集合体である組織で出来ていて、様々な組織が協力する分業体制として目という器官全体が機能しているので、たとえば単細胞生物アメーバに目はないのだけど、アメーバは世界を触手で触知して餌か毒かを知り分けることができている。

それに、アメーバにも細胞内小器官として眼点があって、光刺激を感受することができている。

このような生物学的知見があるのに、目を持つ動物に進化する以前であるアメーバだって客観世界を出現させる主観だと考えてはなぜいけないのか。

目を持つ動物に生物が進化して初めて主観と客観世界が共起したとするショーペンハウアーの説には、いくらでもケチを付けることができて、世界は意志の自己認識で、心という意志ありきで、意志が認識する主観と認識される客観に自己分裂して主客が疎外し合うことによって、心が外側から表面的に眺められ合った姿が表象という物象ならば、すべての物に心が内在することになるわけで、であれば、すべての観測対象が同時に観測主体であることになるわけで、相互作用全般において相互主観性が成り立っていることになる。

つまり生物進化以前である無生物の任意の二点間の作用反作用においてもお互いに相手を客観化する主観の観測行為はおこなわれていることになろう。

このように、何が客観を生み出す主観性という属性を帯びさせる条件であるとするか、異論はいくらでも可能なのだ。

1+1=2というふうに全体が部分の総和に等しいとするエネルギー保存の法則をはじめとする物理法則を超える奇跡は、世界創造後も見えざる神の手を行使して世界進行に介入するときがある神の気まぐれで引き起こされることがあって、1+1が3にも4にもなることがあるのだけど、このような部分の総和にプラスアルファが加わって部分の総和以上の全体が創発されたときを以って、主観が創発されたとする考え方ができよう。

無生物が生物に進化したときが主観が創発された時点だと考えることもできる。

ショーペンハウアーのような目を持つ動物にまで進化して世界のビジョンはクリアーなものになったとする考え方にも一理ある。

多細胞生物の心が細胞社会の集団心理であるのと同じように、種社会レベルでも自己と他者たちからなる一つの集合的無意識が合成されていて、人と人との間であるホモサピエンス種という種社会が構成された時点を以って、世界像はさらにクリアーなビジョンになって、その時点を世界が現象する以前と以後を分ける分水嶺とする、廣松渉の共同主観性の哲学やフッサールの相互主観性の哲学も、可能だろう。

人は心の中に人が住んでいてこそ人たらしめられる、ということは、親という他者を内面化してそれを理性として初めて、人は理性的動物として完成する、ということを、考えれば分かることで、いわば親の念が残留思念として子に取り憑いて生き霊として影響力を行使し得る、というふうに、幽霊が肉体の拘束を振り切って人体の外に脱出する幽体離脱というのは、可能なのだから、廣松渉の共同主観論も吉本隆明の共同幻想論も、可能だろう。

ちなみに、親に虐待されている子は、殴られている体の痛みが耐え難くて、身体としての自分から幽霊としての自分を切り離して、つまり幽体離脱して、幽霊としての自分を天井に浮遊させて、天井から殴られている身体としての自分を眺め下ろしていて、他人事だから痛くない、という現実逃避の仕方をしていることが、報告されて学問のまないたの上に乗せられていて、精神医学用語では、このような心と体の切り離しを、解離と呼んでいる。

想念は、物質界に影響を及ぼし得る。

同一条件下では同一現象が引き起こるとする物理学の前提である法則的世界観に逆らって、想念は、超常現象を引き起こすときがある。

リンゴは木から落ちる。

それは万有引力の法則だ。

しかし、百万回見て百万回とも落ちたとしても、百万一回目は落下せずに上空に飛んでいくかもしれない。

それはポルターガイスト現象と呼ばれる超常現象だ。

このことから分かるように、想念は、どういう条件下で物質界に影響を及ぼし得るのか、問うことは無意味だ。

問いの前提が間違っているからだ。

それと同じように、心が外界を有らしめているというそのことも奇跡であり超常現象であるとすれば、主客の関係はいつから始まったのかと問うことはできないのだろう。

仏教の説く解脱というのは、自分と世界が関わり合う全体が消失して無に帰することなのだろう。

現代物理学の一分野である量子力学では、相互作用全般が観測だとしたら、素粒子と呼ばれるミクロの点粒子が二点存在するとしても二点間の相互作用は起こり得なくて、ミクロの点粒子はマクロとしか相互作用し得ないのである。

このように、不思議なことだらけなのは、多様な現象を一法則で説明できるとする物理学の大前提である、矛盾を理論全体の内部に内包しないような統一理論が可能であるとする大前提が、間違っていることを、物語っている。

個物の個性の多様性を捨象して画一化して捉えるところに、物理学の法則的世界観が基づいている、抽象概念による思考の本質があるとすれば、例外のない規則はないと言われるように、この法則で説明できない例外はその法則で説明されなければならないし、その法則で説明できない例外はあの法則で説明されなければならないし、というふうに、一つの理論が語り落とすものを拾い上げて語るもう一つの理論が必要になってきて、理論は統一理論の野望を抱いて帝国主義的侵略行動に走るものだけど、天下統一の夢は果たされない。
5 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する