mixiユーザー(id:492091)

2021年08月15日12:35

33 view

映画『アイ・キャン・オンリー・イマジン 明日へつなぐ歌』

映画『アイ・キャン・オンリー・イマジン 明日へつなぐ歌』〜2020年11月13日(金)公開〜音楽伝記ドラマ映画全米歴代5位:
https://www.universal-music.co.jp/icanonlyimagine/

 これまでにキリスト教がテーマの映画を数々紹介してきました。その中でも描かれている宗教的な境地が高い作品です。でもわたしはクリスチャンではありません、念のため(^^ゞ

 宗教がテーマになっている作品は、往々にして押し付けがましいタイトルやストーリーにそぐわない曲が突然唐突に出てきたり、あり得ないような奇跡や、強引な展開で救済を強調するものが見られます。それでもその宗教を熱狂的に信じている信者が見れば、陳腐なストーリーでも大感激して素晴らしいと連呼するのですが、信者でない部外者が泣き落としで映画館に連れてこられても、さっぱりわからないような作品もありました。
 クリスチャンの人が言うには、過去の「キリスト教伝道映画」は、出演者もマイナーで、そのくせやたら上映時間が長く、そしてお決まりのパターンで物語が終わったものだったそうなのです。「キリスト教万歳!ハレルヤ」と。
 
 でも近年ソニー・コロンビア映画で公開されている『祈りのちから』などクリスチャン映画は「宗教伝道映画」の概念を大きく変えたものでした。予算も規模も他のメジャー作品と比べて遜色なく、エンターティメントとしても一級のクオリティーであり、興業成績も数多くの娯楽映画がひしめくなかで、初登場でいきなりベストテン入りを果たした作品も多くなってきました。
 それはキリスト教日常に定着している海外の興業だけでなく、キリスト教にあまり馴染のない日本人が鑑賞しても、素直に感動できる物語となっているので、日本国内の上映館数もそれなりのものになってきているといえます。
 
 たとえ信心深くない日本人にとってもとても親しみやすく描くためには、「宗教伝道映画」といえども、まずエンターティメントとして基本をきちんと押さえる必要があります。CGで描き出すような奇跡を連発し、聖書物語を棒読みするような教義の押しつけがましいシーンがあるような作品に、誰が親しみやすさをかんじることでしょうか?その教団の研修ビデオの延長のような映像を見せられたら、教義に感動するどころか、逆効果でしょう。
 
 やはり一般の人に見えもらい、教えに親しみを感じて貰うためには、何よりも主人公が悟った聖人ではなく、観客が感情移入しうるような、悩める凡夫であることが、最低条件であると思います。
 
 最近のキリスト教映画が、ヒットするようになった背景は、一般家庭と変わらない人間の心の機微に触れる親子の葛藤や夫婦間の愛情の問題、特に人を赦すことの素晴らしさといった、人々の善意を前面に打ち出し、感動を誘われる作品が多くなったからだと思います。

 前置きが長くなりましたが、本作は亡き父を想いから生まれた曲「アイ・キャン・オンリー・イマジン」、その曲の誕生物語です。実話がベースになっており、この曲を作ったMercyMeのボーカルである”バート・ミラード”は、各国の大統領と面談するほどのクリスチャンバンドの世界的なミュージシャンとなるまでのサクセスストーリー。しかし、そんな栄光は、わずかしか描かれず、もっぱら話は、曲が誕生する背景となった幼少期の暴力的な父アーサーをいかに赦し、和解するかが大きなテーマとなっていました。

 従来の「宗教伝道映画」であれば、信仰深かかったバートがあっさり父親を赦してしまいめでたしめでたし、「神は偉大だ」という展開になりがちですが、本作はそう簡単にはいきません。神は赦しても、自分にはできないとバートは、父を拒絶し続けるのでした。 さらにバートが家を出て、バンド活動に参加し、全米をドサ回りするなかで、すっかりとは疎遠なってしまったのです。
 
 物語としては、父子の葛藤を経て、その和解までが描かれるのですが、一番ぐっと来たのは、横暴な父親が教会に行くようになり、人格が変わってとても善良な「おとっちゃん」になってしまったシーンでした。
 従来の「キリスト教伝道映画」では、ここで「よかった。神には何でもできる!」となるところですが、今回はそうではありませんでした。父親への怒りと反発で生きてきたバートは、今までのように怒りの感情をぶつける相手がいなくなってしまったことで、むしろいら立ちが高まっていくのです。こういう描写は、親子関係の難しさ、人間の罪深さを見事に表しているといえます。その高まった感情を一気にカタルシスへと向かわせたのが、ヒット曲「I Can Only Imagine」の創作だったのです。
 
 そのような視点で見ていくのでしたら、これは決して米国だけの、しかもクリスチャン同士の「きれいで、美しくて、清い」物語ではありません。むしろ信仰の有無にかかわらず、誰もが感じる「泥臭さく、醜く、そして人間臭い」、人としての葛藤だといえるでしょう。
 そして本作が素晴らしいのは、そのような人間の葛藤が信仰というフィルターを通ることによって、奇跡のように荘厳な芸術を生み出すということなのです。
 父のために、父が憩っているであろう天国を思いながらこの歌を生み出したバートは、一人の人としてのリアリティーを私たちに感じさせてくれる存在だったのです。決して「ナンバーワン・クリスチャンバンド」のボーカルではなく、一人の等身大の男性として、私たちの身近に存在しているような、そんな錯覚に何度も陥りました。
 
 もう一つの見方は、米ゴスペル界の実情を見事に切り取っているということです。彼らが曲を書き、それを演奏するシーンでは、観客が総立ちでとてもノリノリ。これはうまくいった!と誰もが思うのですが、実は音楽プロデューサーたちの見解はまったく異なっていたのです。
 そして印象的だったのは、「教会を紹介しよう」とプロデューサーの一人がバートに語り掛けるシーンでした。つまり教会付きのミュージシャンなら、牧師に寄り添い、教会の働きを助けるということでいい。しかしゴスペルシンガーとして、ホピュラーな世界で売れ、その実績を上げていくためには、その当時のバートたちの実力ではまだ足りないものがあったということであったのです。
 
 私たちはゴスペルというと、まさに教会音楽、神への礼拝音楽、と捉えてしまいたくなります。しかし実際のあり様は、音楽の一ジャンルであって、その世界で「売れる」ものを生み出さなければ生き残っていけません。そういった意味で「I Can Only Imagine」はセールス的にも信仰的にも、その両方の要件を満たす楽曲だったということが分かります。だからすごいし、こうして映画にもなったのでしょう。やはり楽曲の力が、実力ではまだ足りなかったバートたちを押し上げたのだと思います
 
 また、翻訳も素晴らしかったと思います。それを感じたのは「アメイジング・グレイス」の歌詞です。単に聖歌の歌詞で代用するようなことはせず、現代人にも分かりやすいよう、細やかな配慮をして訳していました。もしこれが「キリスト教伝道映画」であるとするなら、そのことに日本の訳者もこだわりを持って臨んだということでしょう。

 他のハリウッド映画と並べても、決して引けを取りません。観て良かったと感じられる一作でした。本作のために祈り、全国を走り回っておられる宣伝担当者にも心からのエールを送りたいものです。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年08月>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031