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2021年06月03日07:52

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痛みを知るまなざしは深く澄んでもう萎れることはない

「街中が裏切りに溢れてるとスネるだけの奴もいるけど、君はかなり重い恋のダメージも腹に収め明日を見据えてる。」(B’z「裸足の女神」)という歌詞の通り、人間不信を経験して、理想化して持ち上げていた自分以外の者を現実的なレベルにまで引き下ろして腹に収めてこそ、腹を中心とする体で感じていることに、体よりも上にある、頭で考えていることを、自己一致させることができて、頭で考えたビジョンを体を動かしてする行動に移せるようになるのだと思う。

頭の中での自分の位置付けをいくら高くしても体は付いて来ないということが行動力不足の根本原因だとすれば、自分以外の者を高い所に持ち上げて憧れては憧れの対象である自分以外の者と自分を同一視している段階から、「街中が裏切りに溢れてるとスネる」段階へ、ステップアップして、さらに、その段階から「かなり重い恋のダメージも腹に収め明日を見据えてる」段階へ、ステップアップして、腹の据わった人間になる、という経過を辿るのだと思う。

その意味では、子供は外向的だけど、思春期に内向的になって、再び外向的になって大人になる、とする発達段階説は正しいだろう。

まだ僕は、人が怖くてビビッているのにビビッていることに気付いていない段階だ。

怯えと現実感覚の欠如が両立している段階だ。

怯えている自分を自覚に高めるには自覚上の自分を引き下げて、頭の中の自分の位置付けを低くして、腹を中心とする体で感じているレベルの真の自己に、頭で考えているレベルの偽りの自己を、自己一致させて、偽りの自己にしがみつくのをやめて真の自己に立ち返ることが必要なのだと思う。

そうすることで、人の悪意の存在を想定し得ないお人好しである段階を乗り越えて、とりあえず「街中が裏切りに溢れてるとスネる」段階にステップアップすると思う。

まずはそこに到達することだ。

腹が据わった人間になるのは、その次のステージだ。

腹とは腸のことで、古代中国の気功医学で言えば、気のエネルギーの源泉である「丹田」(たんでん)に相当する。

行動する前に考えてしまう人間と、考える前に行動してしまう人間が、いるとして、前者は頭が強く腸が弱くて、それに対して後者は頭が弱く腸が強くて、腸に該当する丹田という元気のみなもとから元気がみなぎるから、行動できるのだ、と言えよう。

もし元気が出ないとすれば、元気のみなもとである丹田から気が頭のほうに舞い上がって遊離して、腸と脳が分離して、腸脳相関が失われて、腸から脳へ元気が沸き上がって来れなくなっていて、腸が脳に対して閉じていて開かれてないことによって、気のみなもとで気が滞っているのだ。

腸脳相関を取り戻せば、滞りは解消されて腸から脳へ気が流れ出して、頭のコンセプトを実行に移せる元気が回復する。

まず心で感じているレベルから頭で考えているレベルが離反してから、ついで頭で考えているレベルが心で感じているレベルにアプローチするからこそ、鬱に陥るのだけど、心で感じていることについて頭で考えて導いた結論を直感のレベルに落とし込んで、心で感じているレベルと頭で考えているレベルを自己一致させれば、それこそ、まず外向的である子供の段階から出発して、ついで思春期に内向的になって、しかるのち再び外向的になって大人になる、という順序を経ることだ。
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