mixiユーザー(id:6231411)

2021年05月13日02:09

81 view

戦国時代のカラクリ

日付が変わった。
いやどうなんだろう。
この日が再び緊急事態宣言の最中に在ろうとは
半年前に予測できたであろうか。
否、「そうなるかも知れない」とは常々感じていたことであるが
リアルにそう思ったかどうかである。
我々日本人にありがちなのは希望的観測に頼りがちである。

先日も述べたが、日本人の歴史ロマンで最大の人気を誇るのは
「戦国時代」である。
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979008329&owner_id=6231411
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979025180&owner_id=6231411
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979040901&owner_id=6231411
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979040901&owner_id=6231411&org_id=1979052786

上記4回にわたって些か取り留めのない検証を行ったが
織田信長という、突出したスターが居た事
室町末期の幕府の脆弱ぶりが地方大名の増長に繋がり「下剋上」が多発した事
その引き金を引いたのは「応仁の乱」であり「足利義教暗殺」であった事

などに触れた。
しかし、信長だけが成功できた理由について
触れる触れる、と言いながら触れないままであった。

●戦争の天才だった

実は信長は戦争に天才的な才能があったと言われている。
が、それが有名な「火縄銃の三段撃ち」ではないのである。
前出の尾張国の統一に成功した点に始まるのである。
家督を相続した時点でも守護の斯波氏の勢力は衰えず
守護代を務めていたのは織田伊勢守家(主家)であり
その次に織田大和守家が居て、その下にあったのが
信長の父・信秀が当主の織田弾正忠家である。
役割は主家・伊勢守家の家老であるから所領も小さかった筈である。

そもそも斯波家自体が
室町幕府の「三管領」の一つの斯波家の流れを汲んでいて
尾張守は管領・斯波義淳の末裔が代々務めていたのである。
織田家同士も争うが斯波氏の家督争いも絡んでおり
落ち着かない情勢が続いていたのである。
大和守家は斯波家の家督争いで対立する伊勢守家を追い落とし、
信秀は大和守家の家督争いに乗じて織田の主家に成り上がったのである。

細かい地勢や軍勢の配置で少兵で多勢を打ち破る技術は既に備わっており、
後に対立する弟の信行の柴田勝家を擁する軍団も打ち破っているのである。
織田家の統一には足掛け13年という長い年月を要しており
この期間に用兵術を伸ばしていると考える。
桶狭間の戦いは実は、尾張国織田家統一より少し前であり
翌年以降の美濃侵攻は順番からすると桶狭間の後である。

織田家は領内の支城に複数の兵士を配していたが
その大半を斥候の役割に使用していた節がある。
聴けば、桶狭間の戦いも実は
本来なら籠城すれば互角に戦える程度の軍勢を持っていた織田軍は
敢えて野戦に持ち込んだばかりか
少ない手勢による正面突破で敵大将を討ち取り
被害を最小限に留めて、またその名を知らしめることにも成功した、
と解析できる。
先の日記でも触れたが、
尾張と駿河の国力からすると
両国の「3000対40000」ではなく「15000対25000」程度の戦力差では無かったかと
分析できるのである。

織田弾正忠家の所領には多くの市場を抱えており
経済にも明るかったと言われる信長だが
新兵器である火縄銃にもいち早く目を付ける事になった。
しかし、目を付けたのは信長だけではなく多くの戦国大名も同じであった。
多くの大名が採用したとの説もある「三段撃ち」は
確かに騎馬戦主体だった戦場に革命は齎したが
幾つか弱点というか要点があったのである。

信長はこの鉄砲隊に絶対不可欠な火薬の素となる
「硫黄」に早くから着目しこれを確保していたと言われている。
「楽市楽座」で自由な経済活動を奨励した、と言われている一方で
自治都市化していた堺の街を勢力下に押さえ
関西に群居する細川氏三好氏ら大名と組みつ離れつしながら
関西をも勢力下に押さえようとしていくのである。
まるで無地の野を行くように勢力範囲を広げられたのは
足利将軍に接近したからであるが
そこにも秘密があった。

●「楽市楽座」の本当の狙い
「市」や「座」で潤っていたのは商人というより
寺社勢力である。
商人たちがどこで商売していたかというと、殆どが門前町であり
そこには「僧兵」という輩を配して商人たちを威嚇する大仏教組織があり
その中でも最大の厄介な存在が「一向宗」である。
当時の仏教勢力は実に悪質で、気に入らない存在は「仏敵」と標的にして
僧兵と庶民を焚きつけて襲うのである。
これは大名も領地を持つ武将たちも恐れていた事であるが
信長はこれを押さえる事で戦争を優位に進める術を知っていた。
その一つが「楽市楽座」だったわけである。

当然、糧道の一つを断たれた仏教勢力との関係は悪化し、
信長はその多くと争う事になるのである。
比叡山延暦寺の焼き討ちは有名だが、
実は同じ事に気が付いて最初に実行したのは
足利義教である。
室町時代も仏教は大きな勢力を持っていたが
義教が将軍につく前は比叡山の座主を務めていたので
将軍家と比叡山は関係は良好だったのである。
しかし、宗教としては腐敗を極めている事を知っていた義教は
将軍になると彼らに武装解除を求めて、いち寺院にしようとしたのである。
それに反発した比叡山は大量の僧兵を擁して都に討ち入ろうとしたので
義教は焼き討ちを実行したのである。
信長が「信教の自由」を認めなかったわけではない事は
複数回、面前で仏教問答を展開し、複数ある仏教のリーダーたちと
教義の論戦をさせたことからも事実であり、
また南蛮渡来のキリスト教の布教で訪れた僧侶も手厚くもてなしている。
つまり、信長は義教と同じように仏教勢力に武装解除を求めたのである。

寺社勢力の経済力を奪った事で信長の所領の経済力は飛躍的にアップし
石高以上の国力、それも格段に上の国力を手に入れる事になるのである。

●農本主義からの脱却
当時の戦国大名の国力は「石高」で表せる、と述べたが
信長や、金山を持つ越後の長尾家や甲斐の武田家、
更に駿河の今川家は石高を越えての動員兵力を誇っていた。
100万石の国力があったら、人口が100万人、
半分は女性、その半分が現役世代の男子、
その半分が留守役としたら12万五千人が動員兵力だ、と試算もした。
しかし、実際には人生50年時代である。
15歳から30歳の男子は男子の内の3割、もう少し枠を広げても
せいぜい35%だろう
しかし、その彼らですら、農繁期には自分の耕地に戻って
農業に従事しなければならないのである。
つまり、田植えから収穫までの間と
収穫から田植えの準備までの間だけしか兵士は動員出来ないのである。
太平洋側ならいざ知らず、日本海側の国は雪で閉ざされるまでに
帰郷せねばならない。
信長はこれを打開すべく、専門兵団の傭兵部隊を作ったと言われている。

これにより、秋になっても撤兵する必要はないし
年中戦闘が続けられるのである。信長の無敵状態の期間が出来たのである。
この人員は農地を相続できない次男坊以下の男子を中心に集めたというが
それも富国による副産物である。国が潤う事で子だくさんも可能になったのである。

但し、戦闘になるとこの傭兵部隊は極端に弱かったと言われている。
三河武士が全国で最も強い、などと言われた事もあるらしいが
それと比べると尾張の兵は強くなかったらしい。
それは戻る場所がある者が必死に戦うのと同じく、
傭兵集団は不利を感じると忽ち逃げ出してしまうからである。

だが、戦いさえしなければ「軍勢」は無敵である。
信長は敵が退却するのを待って時間を稼げば
自動的に勝利が手に入る、という強みがあったのである。

以下、続く。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年05月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

最近の日記

もっと見る