mixiユーザー(id:6231411)

2021年04月22日22:55

53 view

戦国時代にロマンはない?!

★信長の成功の背景

戦国時代にはロマンを感じる人が多い
戦国時代を象徴するキーワードは「下剋上」
戦国時代の象徴的スーパースターは織田信長である

以上について、これまで述べてきた。

石高から見る「下剋上」は数値的で分かりやすいかも知れないが、
秀吉が行った「太閤検地」までは具体的な資料がなく、
幾分アバウトな部分がある。
それに「ほぼ」全国制覇を果たしておきながら、
最後は謀反で頓死してしまう信長が真の成功者かと訊かれると
なんとも歯切れの悪い回答しか出来なくなってしまう。

しかし、生き馬の目を抜くと言われた「戦国時代」に
どうして信長が飛躍的に勢力を拡大強化できたか、
については、やはり興味のあるところ。
恐らくは、この時代特有の背景と彼特有の強みが働いていたわけで
それについては、実は余り理解出来ていない事も多いのではないか
そこを検証してみようと思う。

少なくとも信長の所領「尾張国」は
もともとは守護大名の斯波氏の所領であり、
斯波氏に代わって現地を治めていた守護代の織田本家(大和守家)が
実質の領主であった。
この織田家の分家で、家老を務めていた織田弾正忠家の当主で
信長の父・信秀が宗主を追い出して国を乗っ取った、
というのが当時の尾張であった。

武力でのしあがった織田弾正忠家に周囲の各国が警戒するのは当然で、
特に「東海一の弓取り」と呼ばれた名門・守護大名の今川氏や
同じく源氏の中でも超名門の武田氏、
更にこれまた名門で伊勢国の国司の北畠氏は
�狎�り上がり�瓩凌ヅ鳥瓩鯡椶療┐砲垢襦�
尾張は周囲を強敵に囲まれ、尚且つ東海道の要所であり、
油断ならない地勢上の特徴があったのである。

また、北方には尾張よりも強兵で鳴らす斉藤氏が
守護大名の土岐氏より領土を奪い戦国大名として鎮座しており、
東西南北を敵に囲まれた状態だったのだ。
信長の父、信秀も領土拡大と領地の安堵を求め
斎藤氏の当主・斎藤道三に幾度となく闘いを挑んだが、
悉く跳ね返され、とうとう和睦の道を選ばざるを得なかったのである。
和睦の証として差し出されたのが、信長の正室「濃姫」である事はよく知られている。
また濃姫の母親、つまり斉藤道三の正室は
明智光秀の叔母であったと云われており、
つまり光秀と濃姫は「いとこ同士」だったのである。

さてさて、嫡男の信長に目の上のタンコブだった道三の娘を嫁がせ、
かりそめの“尾張・美濃連合”を成立させたところで、
心の張りが切れたのか、信秀は志半ばでこの世を去ってしまった。
そして織田氏の家督は嫡男の信長に譲られることになった。

しかし、この家督相続には反対する一派も居り、
信長の船出は前途多難であった。
人徳もあり優秀だとの評判の弟・信行も信長共々領国経営をしていた実績があり、
これを推す声が絶えなかったのである。
結局、信長は弟を排除し、
また尾張国内の他の織田家(織田大和守や伊勢守)も排除して
漸く尾張の単独領主になったのである。

何しろ、「信長麾下最強」と謳われ、
�犁桓禿牒瓩閥欧譴蕕譴晋紊良�頭家老・柴田勝家ですら、
当初は信行の配下だったのである。
信長は、織田家の主力軍団を率いる信行と勝家と戦い、
きっちりそれを破っている。

戦国の掟では、歯向かう親族に対しては厳罰を処すのが習わしである。
背中から刺そうとしたわけであるから許してはならないのだ。
しかし、その上で彼らを一度は許しているのである
が、その温情を踏みにじるかのような行動を信行は起こしたのだ。
再度、信長に対抗しようとした信行を
「恩知らず」と勝家は見限って信長の下に止まり、
今度は信長は信行をきっちり誅殺したと言われている。

下剋上の道程は険しい。
実はこれらに打ち勝ち、信長がいっぱしの戦国大名と
名乗れる規模に成り上がるまでには、
(家督を継いだのが1552年で尾張統一が1565年であるから、)
足掛け13年余り掛かっているのだ。

こういった苦難とも険しい上り坂ともいえる時期を
乗り越えて、漸く対外戦争の時代に移るのである。
そして、そんな初期の信長を支えたのは、
「家柄や身分に固執しない、実力主義の登用」を推し進めた事である。
前出の柴田勝家を始め、出自があまり明らかでない者でも、
有能でさえあれば、敵軍の陪臣ですらも引き入れているのである。

僕は、そんな信長の功績は「後世に於いては過大に評価され過ぎ」
と考える立場ではあるが、
まだ封建制度や身分制が色濃く残る室町末期に於いて、
これほどまで積極的に“抜擢”を行った大名は居ないと思う。

少なくとも尾張統一迄の彼の大名人生の前半期の成功を支えたのは、
この“抜擢”が適材適所ぴったりとハマって機能した事が大きいと思う。
それは信長の出自が大名から何段か格下の武家からの
「成り上がり」だったことに由来しているのではないかと考察する。
彼が自己肯定をすれば当然、
似たような有能なしかし身分は高くない武将は沢山居ることは自明の理であり、
彼らの力を活かして領土拡大の方策を練ったものと考える。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年04月>
日 月 火 水 木 金 土
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 

最近の日記

もっと見る