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2021年04月14日00:30

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キリスト論論争史 日本キリスト教団出版局 2003年8月

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p.256
実に、本性によって理性的なものは、本性的な力デュナミスとして、知性的な魂の意志(thelesis)と呼ばれ、それに即して私どもは意志しつつ考慮し、考慮しつつ意志しつつ欲するところの理性的な欲求を有している。また、私どもは、意志しつつ探求し、熟慮し、思案し、識別し、決定し、選択し、理解し、用いる。従って、言われているように、理性的に欲求すること、すなわち、意志すること、考慮すること、思案すること、探求すること、熟慮すること、欲すること、識別すること、決定すること、選ぶこと、理解すること、用いることといったことは、本性に即して私どもに備わっているのです。ですから、知性的なものらの本性的なことは必然的なものではないのです。これを認めたなら、これに類する発言があらゆる不条理の中でも不条理極まりないことをどうして提起することができましょう。それによって、明らかに本性的なものは必然的なものであるとすれば、神は本性によって神であり、本性によって善なる方であり、本性によって創造者であるので、神は必然によって神であり、善なる方であり、創造者であることになるだろう。これは、口にしないまでも、考えただけで冒瀆極まりないことである。では、必然を引き合いに出したのはだれか。友よ、よかったら、次のように似たような発言が冒瀆であることも考えてほしい。キリストのうちにある意志は本性的なものであると言う人は、あなたによれば、キリストのうちにあるあらゆる自由な動きを取り去るとすれば、必然的に、本性的に意志するものは強制的な動きを有しており、本性的に意志しないものは自由な[動きを有している]ことになります。従って、存在するすべてのものの上におられる神だけでなく、知性的かつ理性的なすべてのものが、本性によって意志を備えてはいるものの、強制的な動きを有していることになり、逆に、意志を備えていない魂を欠いたものらが自由な動きを有していることになります。幸いなるキュリロスが、『テオドレトスの非難に対する反論』の第三章で、はっきりと次のように宣言して、無用な厄介から私どもを解放してくれます。「本性的なものは何一つとして知性的な本性において強制されたものではない」。これについて学びたい人はこの章を手に取ることができます。
p.257
 これに対して、ピュロスは、[二つの本性から合成されたある一つのものについて語るように、二つの本性的な意志から合成されたある一つのものについて語ることもできる」と言い、「キリストのうちにある[二つの]本性の本性的な相違の故に、二つの意志を主張する人々も、至高の合一ヘノーシスの故に、一つの[意志]を主張する人々も、具体的な例証の伴わない抽象的な言葉によって、双方を互いに対立させることはないはずである」と言い、ナジザンゾスのグレゴリオスの言葉を引き合いに出すと、マクシモスは言う、

 よく考えてください。他のもののうちにあるものらではなく、[一つの]実体ヒュポスタシスのうちに存在するものらの合成であることを全く忘れ、固有の原理によって省察しなかったために、あなたは間違えたのです。これは、異邦の哲学者たちにも、神について語る教会の教導者たちにも共通した考えなのです。意志の合成を言うのであれば、あなたは他の本性的なことについても、それらの合成を主張せざるをえなくなるでしょう。創られたものと創られざるもの、無窮なものと果てあるもの、無限定なものと限定されたもの、死すべきものと不死なるもの、朽ちるべきものと朽ちざるものといったことがらの合成についてのあなたの見解を明らかにする談話を続けたいなら、それは不条理な想定に踏み入ることになるでしょう。ところで、[二つの]意志から成る[一つの]意志はどのように呼ばれることになるのでしょう。実に、合成されたものが合成されたところのものらの名前をもって呼ばれることはありえません。ところが、そのようにして、昔の異端者たちにならって、[二つの]本性から成るものが本性と呼ばれることになるのです。その上さらに、合成された意志によって、本性を合成され、かつ唯一のものと特徴づけることで、あなたはその方を御父から引き離すのです。
p.258
 これに対して、ピュロスは、「[二つの]本性と同様に、それらの本性的なものの間には何も共通するものはないか」と問うと、マクシモスは、「[二つの]本性そのものの[一つの]実体ヒュポスタシス以外には何もない。この同じ方が[二つの]本性的なものらの混合のない[一つの]実体ヒュポスタシスであるのと同様である」と答える。すると、ピュロスは、「栄光を共有するものと、侮辱を共有するものとは別々のものである」と教父たちが言っているのはどうしてか問うと、マクシモスは言う、

 これは、相互の交換という形に即して、教父たちによって言われたことです。ただ一つのものにおいてではなく、二つの、それも等しくないものらの間に相互の交換が存在することは確かです。相互の交換に即して、本性的に備わったものらはキリストのそれぞれの部分に属しています。他の部分との本性的な変化も混合もない名状しがたい合一ヘノーシスに即して、互いに区別される[二つの]部分は[一つに]構成されているからです。ですから、相互の交換という形に即して、あなたは共通の意志について語るのであれば、一つとは言わず、二つの意志と言うはずです。そうすれば、あなたの賢慮は、そこから逃れるようあなたを強いた地点に、再びあなたを向かわせてくれるでしょう。

 「肉と合一された言の合図によって肉は動かなかったとでも言うのか」と問うピュロスに答えて、「あなたはキリストを[二つに]切り離している」と述べた上で、マクシモスは言う、

 実にモーセもダビデも、そして人間的で肉的な諸特性を遺棄することで神的な働きを受け容れうるものとなった人々も、[キリスト]の合図によって動いたのです。しかし、すべてにおいてそうするように、この点でも聖なる教父たちに従う私どもは、変わることなく人間と成られた、万物の神ご自身が、ご自分の神性に対応して神として意志されただけでなく、同じこの方がご自分の人間性に対応して人間としても意志されたと主張します。
p.259
実に、存在しないものから存在するものと成ったものたちが、非存在ではなく存在に役立つ力を有しており、本性に即してこの力の特性は有益なことに向かわせ、破滅的なことに向かうのに抵抗することにあるとすれば、本体ウシアを超える(huperousios)言もまた、人間の本体ウシアを有するものとなられたことで、その人間性の存在に役立つ力を有しておられたのです。その力を通して意志されることで、その追い求める動きと避ける動きとを示されたのです。本性的で非の打ち所のないことに役立つ場合には、不信仰な者たちから神とみなされないまでに、その追い求める動きを、受難の時には、死に直面しての恐れを自発的に示すことで、避ける動きを[示されたのです]。(PG 91, 288B-297C)
…ピュロスの書物の中にも「あたかも[それがキリスト]全体の[働き]であるかのように、キリストの唯一の働きエネルゲイアを宣言しているのを見出した」ことを指摘した上で、マクシモスは言う、

 では、全体のものとして働きエネルゲイアは唯一であるとすれば、全体がこの方の実体ヒュポスタシスでありますから、その唯一の働きエネルゲイアは実体ヒュポスタシス的なものになるでしょう。キリストは御父と御母のいずれでもありませんから、御父とも御母とも異なっている方として、さまざまな働きエネルゲイアを示すことになります。

 これに対して、ピュロスは言う、
p.260
 キリストにおける二つの本性の相違の故に、あなたがたは二つの働きエネルゲイアを主張するのであり、プロソーポンの単一性の故に[働きエネルゲイア]は唯一ではない[と言う]のであれば、本体ウシアに即したその魂と肉体との相違の故に、人間の二つの働きエネルゲイアをも見出されることになるでしょう。もしそうであれば、キリストの働きエネルゲイアは二つではなく、三つになるでしょう。

 マクシモスは答えて言う、

 種に即して人間が一つであること、本体ウシアに即して魂と肉体とが一つであることとは同じことではないと、特に私どもは主張します。実に、種に即して人間は一つであることは、種に即して本性によって不可分なものらであるすべてのものらにみられる完全なる類似性を明らかにします。これを無限定に言うのではなく、「人間の」という限定を添えて言うのです。ところが、本体ウシアに即して魂と肉体とが一つであるということは、それを完全に非存在へと追いやることで、それらの存在そのものを破壊するのです。ですから、種に即して人間が一つであることと、本体ウシアに即して魂と肉体とが一つであることとは同じことではないとすれば、種に即した唯一の働きエネルゲイアを主張することで、必ずしも、私どもはそれを実体ヒュポスタシス的なものと主張することにも、働きエネルゲイアを本性との関係で考えることから三つの働きエネルゲイアを主張することにもならないのです。

 ピュロスが、ネストリオスを引き合いに出して、「プロソーポンは働きエネルゲイアに対応するものであり、必然的に、二つの働きエネルゲイアを主張する者たちは、彼の汚らわしい教説を擁護することになる」と言うのに対して、マクシモスは言う、
p.261
 ネストリオスもまた、二つのプロソーポンを主張することで、唯一の働きエネルゲイアを宣言したのです。私どもによれば、プロソーポンは働きエネルゲイアに対応することになります。そして、あなたがたの規範によって、あなたがたは、聖なる神性の唯一の働きエネルゲイアの故に、その一つのプロソーポンを主張せざるをえなくなるか、その三つの実体ヒュポスタシスの故に三つの働きエネルゲイアを主張せざるをえなくなるか、ネストリオス自身と彼の仲間たちとが彼らの文書で提示したように、この唯一の働きエネルゲイアこそが合一ヘノーシスなのです。私どもにとりましては、種に即して働きエネルゲイアは唯一であっても、実体ヒュポスタシスは多数なのですから、主に即した働きエネルゲイアは一つであることのため、すべてのものの一つのプロソーポンを主張するか、多くのプロソーポンの故に、多くの働きエネルゲイアを主張するかせざるをえないのです。このようにして、次のような教父たちの言葉に出会うことになります。「同じ本体ウシアに属するものらは、同じ働きエネルゲイアに属するものでもある」。
 彼らによれば、プロソーポンは働きエネルゲイアに対応するのであれば、ひとりの同じ受肉した神なる言から多くの働きエネルゲイアが出てくると彼らは認めているのですから、出てくる働きエネルゲイアに対応するだけの[複数の]プロソーポンをも認めることにもなります。併存するものらを認めることになれば、無限のプロソーポンとその[無限の]働きエネルゲイアとが見出されることになります。
 彼らの前提に即して、プロソーポンは働きエネルゲイアが消滅すれば、プロソーポンも完全に消滅することになります。すると、それらによってあるものとして、キリストは存在するものから、そして超越的に存在するものから存在しないものへとなってしまいます。これほど不敬極まりない考えが他にあるでしょうか。
p.262
 こうして、働いているのはひとりのキリストであることが同意されるが、「働かれたのはただおひとりであったとすれば、ただおひとりの方のものとして、働きエネルゲイアはただ一つということになる」と主張するピュロスに対して、マクシモスは「一つの実体ヒュポスタシスによっておひとりの方なのか、一つの本性によっておひとりの方なのか」問うと、ピュロスが、「実体ヒュポスタシスによってです。二重の本性によって存在されたからです」と答えると、マクシモスは言う、

 では、本性の二重性の故に、この同じ方が二重の働きをなされたのでしょうか、それとも実体ヒュポスタシスの単一性の故に、単一的な働きをなされたのでしょうか。ひとりの同じ方として二重の働きをなされたとすれば、プロソーポンの数は働きエネルゲイアの数に対応しないことになります。ところが、プロソーポンの単一性の故に単一的な働きをなされたとすれば、この点に関する論議はそれ自体のうちに同じ不条理を露呈することになるでしょう。実に、働きが実体ヒュポスタシス的なものであるとすれば、[複数の]働きエネルゲイアの相違も[複数の]実体ヒュポスタシスの数量によって判断されることになるでしょう。

 これに対して、ピュロスは、「二重の働きをなされたのであれば、この同じ方の働きエネルゲイアは二つあったのです。しかし、働きをなされたのはひとりの方でしたから、働きエネルゲイアは唯一なのです」と答える。するとマクシモスは言う、

 本性について、別の人があなたに反対して次のように言うでしょう。この同じ方の二重のものであったからには、その本性は二つであるのでも、二つであると言われるのでもなく、この同じ方の実体ヒュポスタシスは唯一であったので、その本性も一つであり、一つであると言われるのです。唯一の働きエネルゲイアを主張することで、これに関連して言われうるすべてのことを避けるために、あなたがたはいったいどのようなことまで主張しようとするのでしょうか。
p.263
神的なものなのでしょうか。人間的なものなのでしょうか。それともいずれでもないのでしょうか。神的なものであると言うのであれば、キリストはただ単に神であるとあなたは言うことになります。
人間的なものであると言うのであれば、[キリストは]完全に神ではなく、単なる人間にすぎないことになります。双方のいずれでもないとすれば、キリストは神でも人間でもなく、実在しないものであるとあなたは定義することになります。

 これに対して、ピュロスは「キリストの神性と人間性との唯一の働きエネルゲイアを主張することで、本性の理拠によってではなく、合一ヘノーシスの様態によって、それがこの方に備わっている」と主張する。するとマクシモスは言う、

 あなたがたの言うように、合一ヘノーシスによって[一つの]働きエネルゲイアがこの方に付加されたとすれば、合一ヘノーシスの前には、働きのないものであったことになり、またあなたがたによれば、[世界を]形成するよう強いられたことになります。また一方で、合一ヘノーシスによって働くことがこの方に付加されたのであれば、御父と御霊とは実体ヒュポスタシスに即して肉に合一されなかったのですから、働かれる方々ではないことになります。では、働かれる方々ではなかったとすれば、決して存在されなかったとは言わないまでも、創造者ではなかったことになります。
 また更に、合一ヘノーシスは様相(shesis)であって、行為(pragma)ではないのですから、キリストの働きエネルゲイアは様相であって行為ではないことになります。
 更に、あなたがたはそれが創られたものか創られざるものか答えるよう強いられることになるでしょう。創られたものと創られざるものとの間の中間勿は決して存在しないからです。そして、それは創られたものであると言うのであれば、あなたがた創られた唯一の本性を提起することになり、創られざるものであると言うのであれば、創られざる唯一の本性であると特徴づけることになります。
p.264
実に、本性的な特徴は何であれ本性に符合するはずだからです。創られた、元を持つ本性の[働きエネルゲイア]が、いったいどうして創られざる、元のない、無窮の、創造的で包括的な働きエネルゲイアでありえましょうか。それとも、創られざる、元のない[本性の働きエネルゲイア]が造られた、元のある、限界づけられた、分解しないために他のものによって保持されたものでありうるのでしょうか。

 すると、「キリストによってなされた諸々の御業の成果を唯一の働きエネルゲイアと呼ぶ人々を是認し賛同しないのか」とピュロスは反論する。マクシモスは言う、

 一つの行動の成果ともう一つの行動の成果とは別々のものなのです。それは、火に包まれ燃える短剣に関連して明らかにしたとおりです。実に、火の働きエネルゲイアにせよ、相互に合一されていても、燃やすという火の成果と切るという鉄の成果とを私どもは目にします。またたとえ、燃やしながら切り、切りながら燃やすというように相互に切り離しえないとしても、そうなのです。それは、天の働きエネルゲイアと、地の働きと、太陽の働きが別々であるのと同様です。従って、行動は一つ、唯一ではないというのは別にして、一つの成果について語ることはできないのです。従って、キリストがなされた諸々の御業の成果に注目して、唯一の働きエネルゲイアを宣言するのであれば、あなたがたは唯一の行動をも宣言するか、無限の行動の故に無限の働きエネルゲイアをも宣言することになります。とはいえ、私どもの吟味は諸々の業に関することです。実に、私どもの論議はキリストの外にあることに関するのではなく、キリストご自身の内にあることに関する、すなわち、キリストの[二つの]本体ウシアの本性的な原理に関するものであり、合一ヘノーシスによってそれが不完全なものとして留まるのか完全なものとしてとどまるのかということなのです。

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■キリスト教とイスラム教の融合!イスタンブール旧市街に残るレンガ造りのモスク「カレンデルハネ・ジャーミィ」
(GOTRIP! - 08月18日 07:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=206&from=diary&id=6197975

かつてコンスタンティノープルとしてローマ、ビザンツ、オスマンという三帝国の首都として栄えた、トルコ最大の都市イスタンブール。この街の旧市街地には、いまなおローマ時代の遺構や建造物が残されており、イスタンブールの歴史を象徴する観光名所にもなっています。

ローマ時代に造られたキリスト教関係の施設の多くは、1453年にオスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを攻略してからはイスラム寺院、つまりモスクに改修されてきました。そのような宗教施設のひとつ、カレンデルハネ・ジャーミィをご紹介しましょう。



カレンデルハネ・ジャーミィは、イスタンブール旧市街を代表するモスク、スレイマニエ・ジャーミィから徒歩10分くらいのところにあります。オスマン帝国時代に造られたモスクの多くの外観とは異なり、重厚感あるレンガ造りが特徴的です。いまではムスリム(イスラム教徒)の毎日の礼拝の場として利用されていますが、その起源はなんと6世紀にまでさかのぼります。



6世紀、この街がまだローマ帝国の領域だった頃、ヴァレンスの水道橋の近くにローマ帝国の公衆浴場がありました。この浴場があった場所に、カレンデルハネ・ジャーミィの元となる最初の教会が建設されたのがこのモスクの起源なのです。

さらに7世紀になると、より大きな教会が最初の教会の南方に建てられ、12世紀になると、現存していた教会の一部を利用してギリシア十字型平面の教会堂が造られました。このギリシア十字型平面を持つビザンツ建築は現存している数が少なく、のちにモスクに改修されてからもその形を留めている点が、カレンデルハネ・ジャーミィの見どころのひとつなのです。

正教会の教会として初代から造られ、増築、改修されてきましたが、ラテン帝国の時代にコンスタンティノープルが奪われると、この教会は十字軍によってローマカトリック教会として使われるようになりました。

1453年のメフメト2世率いるオスマン軍によるコンスタンティノープル攻略以降、この教会はメフメト2世によってイスラム神秘主義のカレンデル(巡礼修行僧)に寄与されました。教会は修行僧によって神学校や公衆の食堂として利用されたことから、この時代以降この建物はカレンデルハネ(巡礼修行僧の家)として知られるようになったのです。

さらに時は流れて1746年、当時トプカプ宮殿のハレムに仕えていた宦官長が、カレンデルハネをモスクに改修するためミフラーブ(モスクにおいてメッカの方向を示すもの)やミンバル(説教壇)などを設置しました。6世紀に教会として造られた建物は、この時にモスクに変わったのです。





このように、ローマ時代から現在に至るまで、宗教の違いはあれど人々の信仰の場として存在し続けてきたカレンデルハネ・ジャーミィですが、そもそも誰のために造られた教会だったのかのは長い間謎に包まれたままでした。しかしその謎も、いまから50年前にようやく明かになりました。

1970年代に大規模な修復工事とこの建物に関する研究が行われた際に、漆喰で塗り固められてきた壁面のフレスコ画が発見され、この建物はテオトコス、つまり神の母マリアに捧げられるために造られたということがわかったのです。





カレンデルハネ・ジャーミィを訪れたら、6世紀の建設当初の名残を感じることができる内部の壁面、そして何世紀もあとに追加されたミンバルやミフラーブに注目してみてください。キリスト教文化とイスラム教文化が見事に融合したこの建物の変遷はもちろん、イスタンブールという街が辿った複雑な歴史をきっと肌で感じることができるでしょう。

Post:GoTrip!http://gotrip.jp/ 旅に行きたくなるメディア

名前 カレンデルハネ・ジャーミィ(Kalenderhane Camii)
所在地 Kalenderhane, 16 Mart Şehitleri Cd. No:11, 34134 Fatih/İstanbul


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