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2021年04月12日01:14

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キリスト論論争史 日本キリスト教団出版局 2003年8月

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p.232
 救い主の人間性はそれ自身で(en idiozouse)実在したのではなく、元から言の実体ヒュポスタシスの内に実在したのである。(『ネストリオス派駁論』二・一四:PG 86, 1572A)
 神なる言のプロソーポンは合一ヘノーシスによってのことであるとすれば、キリストがそうではなかったのと同様に、神なる言は一つのプロソーポンとなる前には、一つのプロソーポンを持っておられなかったことは明らかである。しかし、言の唯一の本性の、本性によって一つであるところのプロソーポンそのものが、受肉の後も、それ自身のうちに肉の本性を言と合一させることで、キリストの二つの本性の一つのプロソーポンであり続ける。従って、プロソーポンではなく本性の合一ヘノーシスによって、唯一の本性からなり、言の唯一のプロソーポンであるところの、キリストの一つのプロソーポンとなるのである。(『ネストリオス派駁論』二・三四:PG 86, 1591BC)

 実体ヒュポスタシスに即した緊密な合一(synanakratikes)によって直接的な形でもたらされた、神との有機的な一致(symphyia)の故に、神化の富が、主であったところの人間の内に、その特有の[人間]本性の内に入った。
p.233
 人類の残りの者ら、アブラハムの子孫から生まれた他の兄弟たち、教会という体……について言えば、彼らは種であったところの人間、練り粉のパン種、唯一の御子(ヨハ一・一八)として恩沢を受けた我々の内の第一の者、身体の一肢体、それも頭(エフェ一・二二)として最初に生まれた者(ロマ八・二九)でもある方……、神と人々との間の唯一の仲介者、我らの主イエス・キリスト(一テモ二・五)との本性的な合一を介して参与するにすぎない。(『ネストリオス派駁論』一・一八:PG 86,1468BC)

 皇后テオドラはアンティオケイアの反カルケドン派を支持したことから、罷免された司教たちが彼女の支援によって地位の回復を願い首都に集まり、五三一年には、皇帝は追放されていた隠修士たちの一団を呼び戻している。更に、五三一年、皇帝はコンスタンティノポリスでセウェロスを中心とする反カルケドン派の単性説派(セウェロス派)とカルケドン派の司教たちとの討論会を企画したが、両派の和解には至らなかった。五三三年三月、勅令の形で信仰告白文を発表する。これはカルケドン信条に反することは何一つ述べられていないが、カルケドン信条の両性説的な表現は用いられておらず、セウェロス派も受け容れうるものとなっていたが、テオパスキスムス的表現(「神が苦しみを受けた」)が用いられていたことから、コンスタンティノポリスのアコイメートイ(不眠の修道士たち)がこれに抗議した。皇帝は教皇ヨアンネス二世にこの勅令を正統信仰を表明するものと宣言し、彼らをネストリオス派として断罪するよう強要した。
p.234
 他方、皇后テオドラは単勢説派の司教の復権を画策するが、五三六年三月、教皇アガペトゥスが東ゴート国王の名代としてコンスタンティノポリスに到着したことで、首都における単性説派の復興は阻止され、メナスがコンスタンティノポリスの司教に叙任された。同年四月、教皇は急死したが、司教会議はメナスの選任を確認し、アンティモスとセウェロスを断罪した。…
…実に、諸々の天の偉大さも、諸々の天体の輝きも、万物の秩序も、存在する物らへの絶え間ない経綸も、我々の本性の弱さにまで降ったことほどに、その神性と崇高なる力とを明らかにするものでないのである。いと高きところから降ることなしに、いったいどうしていと高きものが卑しいものとなり、卑しいもののうちに見て取られることがありえたであろうか。実に、神性が人間的な本性に結び合わされたことで、[人間の本性]となり、また[神性]でもある。この故に、この同じ方を完全な神であり、罪の宣告を完全に解消して、私の全体に救いを賦与するために、その全体において苦しんだ方として完全な人間であると我々は信仰告白する。実に、満ち満ちた方がご自分を無とされ、しばしの間ご自分の栄光を無とされたが、それは私がこの方の充満を分有するためである。

 神の独り子なる御子、我々の主イエス・キリストについて、唯一かつ同一の方の別のものと我々は言うが、ふたりの子とか二つの実体ヒュポスタシスとかを我々は持ち込むことなく、それらによって存在するそれら[二つのもの]において同一の方であると我々は認識しているのである。

 ここでもまた、キリストが神性と人間性との内におられることを教父ははっきりと信仰告白しており、「神性と人間性とによって(ek)」という表現が二つの本性によることを意味しているように、「神性と人間性との内に」という表現もキリストは二つの本性の内におられ、また認識されることを明らかにしているのである。
p.236
 二つの本性、すなわち、神的な[本性]と人間的な[本性]は、唯一の実体ヒュポスタシスの内に、すなわち、神の独り子なる御子、我々の主イエス・キリストの唯一の位格プロソーポンの内に存在することが保守されるのである。実に、彼[キュリロス]は、双方のものが唯一の真の御子の内に保守されねばならないと言う。「ねばならない」と言い添えることで、この教理に関する反論の余地のない自分の見解を我々に明らかにし、「双方のもの」といことは、本性は一つではなく、二つであることを意味しているのである。実に、この同じ教父[キュリロス]が、この方は神的な本性によって受苦されたのではなく、土的な本性によって受苦されたと教えているからといって、この方が唯一の本性であると想定するほどの愚か者はいないであろう。更に、受苦と不受苦とは我々の主イエス・キリストの唯一の実体ヒュポスタシスそのものに属するのであって、同一の本性に即してのことではないと信仰告白するよう我々は教えられているのである。互いに対立する[二つの]ものが、同時に唯一かつ同一の本性に合流することは不可能なことなのである。(三ー二一)
p.238
 第一条 「唯一の本性あるいは本体ウシア、そして唯一の力デュナミスと権能、同一本体ホモウシオンの三位、三つの実体ヒュポスタシスつまり位格プロソーポンにおいて礼拝される」三一の神を信仰告白しない者への異端宣告。

 第三条 「奇跡を行った神の言と苦しみを受けたキリストとは別々の者であると言う者、あるいは女から生まれたキリストと共に神なる言がおられるとか、ある者の内に別の者がいるかのように、[神なる言がキリスト]の内におられるとか言う者、受肉し、人間となり、奇跡と、進んで肉において耐え忍ばれた苦難はこの方のものであるところの我々の主イエス・キリストはひとりの同じ方であると言わない者があれば、そのような者はだれであれ排斥される」。
 第四条 「神である言の人間との合一ヘノーシスが実現されたのは恩恵によるとか、働きエネルゲイアによるとか、栄誉の同等性によるとか、権威とか高挙とか適応とか能力とかによると言う者、あるいは好意、すなわち、神である言が[一個の]人間を気にいり、彼を好ましく思ったことによる――このように常軌を逸したテオドロスは言う――と言う者、あるいは同名異義による――これによってネストリオス派は、神の言をイエスならびにキリストと呼び、[一個の]人間をキリストならびに御子と名づけ、明らかに二つの位格プロソーポンを主張していながら、一つの名称と栄誉と礼拝の点で、一つの位格ならびにひとりのキリストを主張するかのように偽装している――者、また、神の言の、理性的知性的魂によって生かされた肉との合一が、結合シュテシスによって、すなわち実体ヒュポスタシスによって実現した――このように聖なる教父たちは教えた――、それ故、その唯一の実体ヒュポスタシス、つまり主イエス・キリスト、聖なる三位の一つを信仰告白しない者があれば、そのような者はだれであれ排斥される。
p.239
実に、この合一は種々様々に考えられているが、アポリナリオスとエウテュケスの不敬な教説に追従している者らは、構成要素の消滅を認めて、混合による合一を主張する。テオドロスとネストリオスのように考える者らは、分離を享受し、僧官的な合一を唱導している。…
 第五条 「我らの主イエス・キリストの唯一の実体ヒュポスタシスを、複数の実体ヒュポスタシスを容認するような意味で解釈し、それ故、キリストの秘義に二つの実体ヒュポスタシスもしくは二つの位格を導入しようとし、彼が導入した二つの威嚇は、威光と栄誉と礼拝によって一つの位格[になっている]と言う――このように常軌を逸したテオドロスとネストリオスは論じた――者、また、このような不敬な意味で、「一つの実体ヒュポスタシス」という表現を用いたと述べ、カルケドンでの聖なる公会議を中傷し、神の言は実体ヒュポスタシスによって肉と合一し、それ故、その実体ヒュポスタシスは一つ、位格は一つ[である]と、そしてこのようにカルケドンでの聖なる公会議は我らの主イエス・キリストの唯一の実体ヒュポスタシスを信仰告白したと信仰告白しない者があれば、そのような者はだれであれ排斥される。…
 第七条 「言は肉の本性に変化したのでも肉が言の本性に吸収されたのでもない――実に、実体ヒュポスタシスに即した合一ヘノーシスが生じた後にも、本性によってあるところのものであり続ける。――のであるから、その[表現に]によって、その[二つ]から混合なしに名状し難い合一ヘノーシスが生じたところの[二つの]本性の相違が示されているので、『二つの本性の内に』と言いながら、ひとりの我々の主イエス・キリストは神性と人間性との内に任氏k氏有れる信仰告白しない者があれば、また、キリストの秘義に関して、この発言を部分への分割を意味するものと解したり、受肉した神なる言である、ひとりの同じ我々の主イエス・キリストに関して、[二つという]本性の数を信仰告白しておりながら、それらによってこの方がこうせいされているところのこれら[二つ]の本性の、合一ヘノーシスによって破棄されることのない――実に、双方からなるひとりの方であり、ひとりの方を通して双方のものがある――相違は単に理念テオリアによるものであると取らず、切り離された、固有の実体を持つ[二つの]本性を考えるために、この数を用いる者があれば、そのような者はだれであれ排斥される」。
 第八条 「神性と人間性という二つの本性から生じた合一ヘノーシスを信仰告白し、神なる言の受肉した唯一の本性を口にしながら、それら[の発言]を聖なる教父たちが教えたように、すなわち、実体ヒュポスタシスに即して生じた神的な本性と人間的な[本性]との合一ヘノーシスによってひとりのキリストは成り立っていると取らず、これらの発言によってキリストの神性と肉との唯一の本性もしくは本体ウシアを唱導しようとする者があれば、そのような者はだれであれ排斥される。実に、我々は、独り子なる言が実体ヒュポスタシスに即して合一されたと言うとき、[二つの]本性相互の浸透のようなことを主張するのではなく、それぞれがそれであるところのものであり続けつつ、言は肉と合一されたと考えているのである。それ故、神であり、人間であり、神聖にそくして御父と同一本体ホモウシオスの方であり人間性に即して我々と同一本体ホモウシオスの方であるキリストは一人の方である。実に、[二つの]部分に切り離したり分割する者ら、そしてキリストの神的経綸[=受肉]の秘義を混乱させる者らを同様に、神の教会は嫌悪し排斥する」。
 第九条 「二つの本性の内にキリストは礼拝されると言い、それによって二つの礼拝、一つは神なる言に固有の[礼拝]、もう一つは人間に固有の[礼拝]を唱導する者があれば、あるいは肉を棄却したり神性と人間性とを混合したり、けえ都合された[二つのもの]から成る唯一の本性もしくは本体ウシアという欺瞞を口にしたりした上で、キリストを礼拝して、神の教会が元から受け継いで来たように、受肉した神なる言に、その固有の肉と共に、唯一の礼拝をささげない者があれば、そのような者はだれであれ排斥される」。

 第十二条 モプスエスティアのテオドロスの断罪。「彼は、神である言とキリストは別々の者であり、[キリストは]魂と肉とからこうむる欲求を甘受され、徐々に諸悪から解放され、所業の進歩によってより善いものとなり、生活によって非の打ち所のないものとなったのであり、彼は単なる人間として、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられ、その洗礼を通して聖霊の恵みを受け、[神の]子となる誉れを得たのであり、王の像に等しいことによって、神の言のペルソナにおいて礼拝されるのであり、復活の後、その思いは不変になり、全く罪を犯しえないものとなったと述べ、更に、同じ不敬なテオドロスは、神である言のキリストとの合一は、使徒[パウロ]が男と女について、『ふたりは一体になる』(エフェ五・三一)と述べているようにしてなされたと主張し、他の無数の冒瀆の中で、復活の後、主が弟子たちに息を吹きかけて、『聖霊を受けなさい』(ヨハ二〇・二二)と言われた時、[弟子たち]に聖霊を与えたのではなく、外形だけで息を吹きかけたのであると敢えて主張し、また、復活の後、主の手と脇腹に手を触れたトマスがなした、『わたしの主、私の神よ』(ヨハ二〇・二八)という信仰告白を、トマスはキリストに対してこれを述べたのではなく、復活という奇跡に驚愕したトマスがキリストを復活させた神を称えて述べたものであると言っている」。
p.242
 第十四条 イバスの断罪。「イバスがペルシアのマリスに書き送ったと言われる手紙は、神である言が神の母であり終生処女である聖マリアから肉体を受けて人間となられたことを否定し、逆に、単なる人間として彼女から生まれたと述べ、あたかも神なる言が別々のものであるかのように、それ(人間)を神殿と呼んでおり、また不敬な輩アポリナリオスと同様な異端を書き記したとして、キリスト教の正統信仰の伝令である聖なるキュリロスを中傷しており、更に、審議も尋問もなしにネストリオスを追放したとして、エフェソスでの第一公会議を非難しており、またこの不敬な手紙は聖なるキュリロスの十二箇条を不敬で正統信仰に反するものと宣言し、テオドロスとネストリオスならびに彼らの不敬な教説と著作を擁護している」。
p.244
しかしながら、テミスティオスにおいては、人間性の諸欠陥は、単に肉に属するものではなく、精神にも属するものであった。イエスは我々よりも優れた知識を有していたが、福音書の多くの箇所が示しているように、イエスにも無知なことがあったのである。ここから、このグループは「アグノエータイ派」すなわち「無知派」と呼ばれることになった。
p.245
二世説に立つ限り、これはたいした問題とはならない。しかし、単性説にとっては、受肉の後には唯一の本性しか存在せず、それは神的な本性であるから、その神的な本性に無知を帰することになる。セウェロスとテオドシオスは無知をイエスの肉に帰すことで、それを解決しようとしたのに対して、テミスティオスはキリストの知識には限界があったことを認めるのである。

 我々のために受肉し、完全な人間となった御独り子は、人間性の本性において、審判の時と日とを確かに知っておられたが、人間性の本性によって知っておられたのではない。[人間性の本性]において知っておられたことは、[人間性の本性]によって知っておられたのではないのである。人間となられた神は、ご自分の神性の能力を通して審判の時と日とを知っておられたのだからである。……従って、神であり人間でもある方として、審判の時と日とを知っておられたのである。しかし、神が人間であられたからなのである。
 ネストリオス派の一員でない者は、アグノエータイ派ではあり得ないことは全くもって確かなことである。神の知恵そのものが受肉したことを表明する者は、神の知恵が無知なることが何かしらあるだろうか[ありはしない]と言うことができるのである。……(DS475-476)
p.248
その中で、「唯一の働き」あるいは「二つの働き」といった表現を禁ずることを提示し、「唯一同一の御独り子、我らの主イエス・キリストは神的かつ人間的に働かれた(energein)のであり、神的なものであれ人間的なものであれ、すべての働きは、人間となった唯一同一の言から分たれることなく(adiairetos)生じ、唯一同一の言に帰される」と述べている。…
 六二二/三年には、アルメニアへの遠征の折に、パウロスと会見し、六二六年にはキュロスとも会見し、アルメニアならびに周辺地域に単勢説を受け容れるよう強制している。六三四/五年に、セルギオスの『プセフォス』(決議)を受け容れ、皇帝はこの問題を論議することを禁じた。
p.253
 では、キリストは本性によって神であり人間でもあられるとすれば、神であり人間でもある方として意志されるのでしょうか、それともただキリストとして意志されるのでしょうか。もし、キリストは原則的に神であり人間でもある方として意志されるとすれば、ひとりの同じ方であられるが、ただ一つの形態ではなく、二つの形態をもって意志されることは明らかです。実に、キリストは、それらによって、またそれらのうちに存在されるところの、ご自分の[二つの]本性を有する以外の何ものでもないとすれば、明らかに、ひとりの同じ方であられるにしても、双方のいずれもが意志のないものでも働きのないものではないのですから、ご自分の[二つの]本性に対応するかたちで、すなわち、それぞれであられる方として意志され、働かれたのです。また、もしキリストはご自分の[二つの]本性に対応して、すなわち、それぞれであられる方として意志され、働かれたとすれば、この方の本性は二つであり、この方の本性的な意志も明らかに二つであり、本性的な働き(ousiodeis energeiai)もそれらと同じ数なのです。実に、敬虔に理解され主張されるところの同じひとりのキリストの[二つの]本性というこの数がキリストを切り離すことなく、合一ヘノーシスにおける[二つの]本性の相違を保守するように、言うなれば、この方がその双方をもって我々の救いを意志し働かれるところの、この方の[二つの]本性に本体的に対応する[二つの]意志と働きも、分割を持ち込むことなく――断じてそういうことはありません――合一ヘノーシスにおける双方の保守と保全とを明らかにするのです。
p.254
 では、私があなたに質問します。神と聖なる者たちとの一つの意志を言う聖なる方々は、本体ウシア的で創造的な意志に注目してそう言っているのでしょうか、それとも意志の対象に注目してそう言っているのでしょうか。見る者が見ている物と見られた対象とは同じものではないように、意志する者の意志と意志の対象とは同じものではありません。前者は本体ウシア的にその主体に属しますが、後者は彼の外にあるのです。もし本体ウシア的なものに注目して言っているとすれば、神と同質の創造の共働者という聖なる者たちを唱導しているとみなされるだけでなく、本体を異にする者らが共通の意志を持つことはできないとまくしたてているのですから、自己矛盾をきたいしているとみなされます。ところが、意志の対象に注目してのことであれば、原因の観点から、あるいはある人々に好まれた表現を用いれば、無理な表現を用いて、教父たちは意志された対象を意志と呼んでいるのですから、単純に意志することを諸本性に属することであると定義したとしても、いかなる不条理にも陥ることはありません。

 見ることとどのように見るかということが同じではないように、意志することとどのように意志するかということは同じではありません。実に、見ることと同様に、意志することは本性に属し、同種同族のすべてのものに属することです。
p.255
しかし、どのように見るかということと同様に、どのように意志するかということ、すなわち、歩くこととを意志することとか歩くことをいししないこととか、右を見ることとtか左を見ることとか、上を見ることとか下を見ることとか、情欲のために見ることとか存在するものらの理拠を悟るために見ることといったことは、意志したり見たりすることを用いる方法であり、それを用いる者にもみ属し、普通に言われるところの相違に即して、その者を他の者たちから区別するものなのです。このことを証しする分別を得たなら、食べることを意志するとか食べることを意志しないとか、歩くことを意志するとか意志しないとかといったことは、本性的に意志することを棄却することではなく、どのように意志するかということ、すなわち、意志の対象の発生ならびに消滅なのです。実に、ご自分の意志の対象として神によって生ぜしめられたことを私どもが尊重しないからといって、前もってそれを考えておられた[神]の本体的かつ創造的な意志がそれとともに消滅するのではありません。

 これに対して、ピュロスは言う、

 あなたは、意志は本性的なものであると言われるのなら、本性的なものが必然的なものでもあるのは明らかなので、キリストのうちにある意志が本性的なものであると言うとき、キリストのうちにある自由な動きをことごとく破棄するよう私どもに強制されないのはどうしてですか。

 マクシモスは答えて言う、

 神的で作られざる本性は本性的な必然性を有していないだけでなく、知性的で創られた[本性]でもない。


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■ヨルダン元皇太子「国王の手中に」 批判一転、忠誠誓う
(朝日新聞デジタル - 04月06日 17:32)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6474394

 中東ヨルダンの王宮府は5日、ハムザ元皇太子がアブドラ国王に忠誠を誓う文書に署名したと発表した。ハムザ氏は国王に批判的な立場を取り、軍によって軟禁状態になっていると訴えていたが、国王側が事態の収束を図ったとみられる。


 AP通信などによると、ハムザ氏は仲裁役となった王族と面会した。その後、「国王の手中にとどまる」「憲法を順守し、国王と現皇太子を助ける」などとする文書に署名した。


 ヨルダンのサファディ外相は4日の会見で、ハムザ氏を「外国勢力と共謀して国家の安全を脅かす悪意ある策略を企てた」と批判。国を不安定にする活動をやめるよう求めたことを明らかにしていた。一方、ハムザ氏は英BBCが3日に公開した動画で、自宅で外部との接触を禁じられていると主張。「私はいかなる陰謀にも関わっていない」とも訴えていた。(エルサレム=清宮涼)


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