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2021年03月20日05:48

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幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争も生き残った義に生きた武士たちの維新後:前編

 幕末の京都で尊皇攘夷の浪士テロリストを流血沙汰で取り締まった武装集団・新選組は、歴史的に見れば守旧反動派なのだろうが、今は妙にファンが多い。僕も、個人的には好感を抱く。

◎蝦夷まで転戦して新政府軍と戦いで戦死した土方歳三
 特に宇都宮、会津、蝦夷・松前、箱館へと転戦して薩長に徹底抗戦、箱館戦争で潔く散った土方歳三(写真)は、イケメンだけに女性ファンも多い。公に殉じた生き様が、現代人の琴線に触れるのだろう。
 最盛期には230人ほどの隊士を抱えた新選組だったが、内部分裂や隊内の粛清を経て、鳥羽伏見の戦いで敗れて以降は、隊士が次々と戦死・離隊して、敗残の色を濃くしていった。
 最後は会津に残った斎藤一らと分かれた土方歳三ら新選組は、21人にまで減り、仙台を経て箱館へ渡った。
 蝦夷でも五稜郭に拠った新選組は、桑名藩兵などを加えて松前城を落とし、また上陸してきた薩長=新政府軍と勇敢に戦った。前記のように、この戦闘で土方歳三は、一本木関門付近で戦死した。

◎土方の遺品を故郷の日野まで届けた市村鉄之助
 その後、新選組生き残り組は榎本武揚総裁らと共に降伏する。
 さて、それで僕の興味を引いたのは、箱館戦争でも生き残った新選組は何人いたか、ということだ。1人だけは、知っていた。土方の内命を受け、新政府軍の包囲をかいくぐり、多摩・日野の親戚・佐藤彦五郎のもとに土方の遺品を届けた市村鉄之助である。
 まだ15歳に過ぎなかった市村を殺すのに忍びないとした土方の親心なのだろう。
 現在、洋風軍服を着た凜々しい姿の土方歳三の写真が残るが(前掲の写真)、これは函館で撮ったものを市村が佐藤に届けた遺品の一部である。
 その後の行方は分からないが、後述の西南戦争で戦死したとも、故郷大垣で病死したともいわれ、定かではない。
 その他、土方と生死を共にした生き残り組に、島田魁、中島登、田村銀之助、山野八十八がいた。

◎箱館戦争後も生き残った不死身の島田魁
 このうち島田魁(写真)が最も著名で、島田こそ血に染まった新選組を最も体現した生き残りと言えるだろう。池田屋事件、伊東甲子太郎ら御陵衛士分派を襲った「油小路の変」にも参加し、さらに鳥羽伏見、甲州勝沼、流山、会津、宇都宮、仙台、箱館と転戦している。
 何かのドラマで島田魁が泥や血で汚れボロボロになった「誠」と記した新選組隊旗(写真)を五稜郭で翻していたカットを観た記憶があるが、まさに島田らしい姿だった。上の写真は、そのドラマに使われた隊旗である。
 箱館戦争後、島田は新政府軍のもとで謹慎処分を受けるが、謹慎が解けた後は、剣道場を開いたりして、1900(明治37)年まで生きた。享年72歳。

◎新選組の歴史を伝えた重要な1人
 晩年に島田は、賊軍の汚名を着せられた新選組の義に生きた姿を後世に伝えるために多くの記録を残した。
 賊軍として薩長の政権により歴史の闇に閉じ込められず、新選組が僕を含めて多くの歴史ファンの心の中に生き続けている功績者の重要な1人なのである。
(この項、続く)

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202103200000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「エチオピア紀行(152):砂漠のワディで岩塩をラクダで運ぶキャラバン隊」

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