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2020年07月30日22:40

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不老不死への期待,そして無我と輪廻との関係についての一考察

 この記事を読んで非常な興味を感じるとともに,僕が仏教について常々感じていた疑問を解く鍵が隠されているのではないかとも感じました。

 「脳の活動とは脳内を電流が流れることで,それは作動中のコンピュータに類似している」という話は以前に何かの雑誌記事で読みました。僕はその際「ならば脳内の記憶をコンピュータに転送することも可能なのか」と感じたのですが,その直後に「人間の記憶をコンピュータに転送することは全くの夢物語」と明記されていて非常にガッカリしたのを覚えています。しかしいつの間にか技術は大きく進歩し,東京大学の渡辺正峰准教授によれば「20年以内に」「中古車1台分程度の価格で」実現可能だというのですから,驚くほかはありません。最初「脳のバックアップを取るのか」と思いましたが,それに留まらず意識を丸ごとコンピュータに転送して,サイバー空間内で感情などを伴ったまま生き続けることも可能なようです。肉体が朽ちてしまうのはどうしようもありませんが,それに関しても「ロボットアバターを用意し、現実社会に戻れる」というのですから,サイバー空間内に留まらず現実とのコミットもまた可能です。

 これが本当に実現したら・・・と夢が広がります。僕は「死とは何か」といった哲学的な悩みを持ったことは殆どありませんが,自分の全てが無になって何かを考えることも感じることも出来なくなってしまうのは非常に恐ろしいことだと思います。仮に僕の脳をコンピュータに転送し「全てが消え失せる」ことを阻止出来るなら,それだけでも大変有り難いことです。しかもサイバー空間のみに留まること無くロボットアバターで現実社会に戻ってくることも出来るというのですから,これに勝る喜びはありません。ロボットですから美味しいものを食べたり体を鍛えて筋力をつけたりといったことはもう出来なくなっているでしょうが,それでも友人と会話したり音楽や美術を鑑賞したりといったことが出来るのですから,非常に嬉しいことです。費用は中古車1台程度とのことですが,個人的には家1軒分の費用を拠出するのも惜しくはないと感じてしまいました。

 そのように考えるうち,この渡辺准教授の研究から僕が仏教について常々感じていた疑問を考察する上で大きなヒントを得られるのではないか,そのように思い当りました。
 有名な話ですが,仏教では輪廻を説く一方で「無我」ということを強調します。無我という言葉が何を意味するのかというと,通常は「普遍的な本質(=我)は存在しない」という意味に解釈されています(「大辞林」より)。ここから「仏教は霊や魂の存在を認めていない」ということもよく説かれるところです。しかし,霊も魂も存在しないならば一体何が輪廻するのか? それとも輪廻など存在しないのでしょうか。たしかに「人は一代限りで,死んだらそれで肉体も精神も完全消滅。前世も来世も無い」と考えれば無我との矛盾は生じません。「昔のインド人は輪廻を当然視していたので,釈尊は便宜的に輪廻を説いただけ」という説もあり,近年の日本仏教ではむしろそうした「合理的な」解釈が一般的ともされています。実際,最近の仏僧は「良く生きる」ことについては説いても「死んだ後に人はどうなるか」についてはあまり説かないように感じられます。敢えて質問しても「分からない」という回答が多いようです。
 しかし「輪廻は便宜的に説かれただけで,釈尊は実は前世も来世も存在しないと考えていたのだ」という意見は,やはり無理があります。仏教ではそうした「死後には何も存在しない」という考え方を「断見」といって,それと逆の「不滅にして不変の霊魂が存在する」という考え方(「常見」)ともども「邪見」と断じているのですから。いや,それどころか仮に釈尊が断見を説いたのであれば,仏教の教え自体が存在意義を失います。仏教においてはこの世を「苦」の世界と捉えますが,もし来世が無いのなら,自殺してしまえば辛い修行などよりよほど簡単かつ確実に苦から逃れられる筈ではありませんか。しかし釈尊は弟子たちに自殺せよなどとは薦めませんでした。それは自殺しても苦からは逃げられないからで,何故逃れられないかと言えば来世があるからでしょう。
 では「不滅の霊魂は存在しないが,かといって一代限りではない」というのはどういうことなのか・・・と考えるうち,上記の「コンピュータへの意識の転送」という話との類似性に思い当たりました。コンピュータへの意識転送に成功しても,意識という物体が存在するわけではありません。コンピュータ内部に0と1とで記録された情報が保存されるだけですし,記憶媒体たるコンピュータが転送によって形を変えるわけでもない。つまり,ある意味では何も存在しません。加えてサイバー内に転送された意識は新たな物事を認知することで変容を遂げ続けていくでしょうから,不変でもない。しかしその情報が「生前の人物から連続した意識」になるのですから「何も無い」というのとも違います。常見でも断見でもない来世,というのはこれと類似するものなのではないか。そして転生とか幽霊とかというのは,そのデータが新たに転送されたロボットアバターのことではないだろうか。また悟りを開き,或いは浄土に往生すると輪廻の環から逃れられるというのは,もはやロボットアバターによって「苦」の現世に戻ってくることを免れた状態を指すのではないか。それと一見矛盾する「お盆にご先祖が帰ってくる」というのは,一時的に先祖の意識が仮のロボットアバターで現実社会に戻ってくることなのではないか・・・などなど,思いは広がるばかりです。

 念の為に申し添えると,僕は「仏教を的確に理解した」と思っているわけではないし,まして「仏教が科学的に正しいと証明された」などとも思っておりません。そもそも渡辺准教授の研究では機械的な仕組みで意識をコンピュータに転送するのに対し,僕なりに考えた仏教の来世観では「死んだ者の意識が自動的にどこかに転送される」と言っているわけで,両者を混同するのは正しいことではありません。しかし「無我であり,かつ来世が存在する」という難問について,渡辺准教授の研究をモデルに考えると矛盾が生じないのではないかという素人の思い付き,僕はちょっと気に入っています。脳科学や仏教学について今後も勉強を深めていくのと同時に,その道の専門家に「こんなことを考えてみましたが,どうでしょう?」と伺ってご意見を拝聴する機会を持てたら良いなぁ,などと願っているところです。



■機械へ意識をアップロード? 東大准教授、不老不死への挑戦 研究の活力は“死への恐怖”
(AERA dot. - 07月24日 09:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=6169402
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