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2020年05月12日11:53

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若い時から僕や旧友たちが求め続けたもの

それは人と人、人と社会をつなぐものであった。確かに、政治・経済・法律と大切には違いないが、それらはルールみたいなものであり、人などはつながない。すでに僕も中学の時から判っていた。人や社会をつなぐものはないとさえ早くから思っていた。中学・高校時代の同級生にも同じ事を思う人がいて、その面では意見も一致した。彼は極めて頭が良く、それでニーチェ哲学を論じ始め、僕はさっぱり判らなかったことが懐かしく思い出される。


  卒業後、出会った多くの学生・社会人ボランティアも同じだった。中には、法学部の人で「つなぐものはない。社会も存在しない」と言っていた人もいた。それでも、その人含めて、人と人をつなぐものを必死に求めた。1977年当時の僕は、身障者の連帯があり、それが身障者間を結ぶのではないかと考え、それで近所の身障会、多磨全生園、島田療育園に行ったわけだ。でも、その3つも違った。どれも内紛ばかり。確かに、「身障」は肉体的な問題。それが人を結ぶわけはないとすぐに気が付き、その結びの発想は早くに撤回している。

  全生園関係から、各キリスト教派の友人が増え、その影響もあり、人を越えた「神」が人と人、社会をつなぐのではないかと思うようにもなった。とは言え、全生園関係で知り合ったカトリックやルター派の人たちは、明らかに個人信仰に徹していた。自分と神との関係にこもる感じで。関係も悪くなり、縁も切れていった。そして、例の教派に行ってみた。最初はうまくやれたが、教会組織=神という考え方に牧師たちが固執するなど、おかしさが見えたと。更には、そこも「神」は実際にはつなぎ役になっておらず、それで諸々の差別問題も起きている事も知らされた。僕が行っている時も、一牧師が在日韓国人の方に差別的な発言をして大ゲンカになった事もあった。又、一人、身障男性で「セックスしか結ぶものはない」と公言する人もいた。口には出さないが、それが暗黙の了解になっており、また、「人をつなぐものは何だろう?」と多くの信徒が言っている始末。昔の細川ガラシャもそうだったらしいが、教派の別なく、日本ではキリスト教の神は、個人の心の支えとなる例が多い。ガラシャもそうだったように、それでウツが改善される例も多いし、それはそれで良いと思うし、尊重はされなければならない。とは言え、僕の求めるものとも違ったわけであり、そこからも僕が教会を去ったのも当然だったと思う。

  その後も社会活動をしたが、話に聞く市民意識も持てなかった。市民意識が人をつなぐとも思えないし。

  そうして年月が経ち、縄文時代に助け合いで身障者も共に生きていた事を知り、考えさせられた。更には、江戸時代以前の日本人は仏教の伝統で心がつながれていた事も。特に、命=仏性と考え、人を超えるものとして、それで心つながっていたと。ならば、生命科学が発達してきている今も、仏性を遺伝子に変えれば、十分につなぎになるのではないかと。これが僕にしろ、多くの旧友たちにしろ、求め続けていたものではないかと。

  確かに、人を超えて、つなぐものがなければ、どんな人と出会っても、挨拶だけの上べだけの関係に終わってしまうと。人をつなぐものがあって、初めて、恋愛や結婚は勿論、友情も、介護も成立するし、今のコロナ対策も出てくる訳だから。真の政治や経済、法律運用にもなるわけであるし。コロナは大切ですが、もっと大切なものもあるわけです。


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