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2019年10月29日17:23

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Take it easy.

フロイトが精神分析を神経症に適用して、神経症とは、現実についての不安を呼び起こす観念を全然違う観念に置き換えて、それについて不安がっている、というふうに、現実に直面することから逃げるために、現実についての観念を強迫観念に置き換えて、整理整頓せずにいられないとか手を洗わずにいられないとかの不安を打ち消す儀式という症状を出しているところを、指し示して、言っているのであるからには、強迫神経症の強迫観念というオブラートに包まれている限りにおいて剥き出しの現実に向き合わないでいられることによって、神経症患者は、むしろ幸せでいられるのだ、と考えて、神経症患者に対して、あなたの神経症の症状は治さないほうがいいよ、と言って、治療を拒んだこともあった。

神経症の一つとしての、対人恐怖症における、心理の基調である、恥も、当人が恥ずかしがっているポイントと真に恥ずべきポイントがズレていて、浮いている存在が溶け込めない自分を正当化するために孤高を気取っていて高慢で傲慢な自分を罪深いと感じていない限りにおいて、恥と自己嫌悪は表面的な浅いもので、自己嫌悪が深まって自分を醜悪な存在と感じて存在そのものが罪悪であると感じるようになって罪悪感と向き合うことになることを、未然に防ぐことに、役立っている、というふうに、現実逃避の意味合いを、帯びている、と言うこともできるのかもしれない。

恥や自己嫌悪は、理想が高所に浮き上がっていて、それと比較して現実の自己を卑下している、という状態だけど、高い程度に達している理想は、ありのままの自己を否定する親という他者を内面化してもう一つの自己としたもので、他者という自分以外の者を理想化してそれと自分を同一視しているのだから、卑下している自分と卑下されている自分という二手に自分が分かれていて、自分を卑下するという自嘲において、自嘲される側に回っている、現実の自分を、高見の見物していられる、自嘲する側に回っている、架空の自分は、理想世界に住んでいて現実感覚を感じることから逃げおおせていられる、という意味で、対人恐怖症患者は、症状のうちへと逃げ込んで現実問題を回避している限りにおいて、幸せなのだ。

言い換えれば、世界を善意の解釈で包み切っていて、そのような外界の他者たちと自己を同一視しているために、自己嫌悪しているようでいてそれでいてしかもなおかつ自己の善性を信じていられるから、心が安定していられるのだ。

これは、情緒が不安定な自己を安定させるために、自傷行為という形で自己否定する、境界性パーソナリティ障害の患者の心理とも、相通じている。

つまり、自己嫌悪していて生まれてきてすみませんという罪悪感で苦しんでいる、という意味で、自己肯定感が低いことによって特徴付けられる、境界性パーソナリティ障害と、自己の善性を信じているために安定している、という意味で、自己肯定感が高いことによって特徴付けられる、自己愛性パーソナリティ障害を、併発しているのが、対人恐怖症なのだ、とも言えようかと思う。

境界性パーソナリティ障害は、理想に手が届かない現実の自分が単に恥ずかしいだけであるのに対して、自己愛性パーソナリティ障害は、恥ずかしいことが恥ずかしいという意味で二重に恥ずかしくて、単に弱いだけでなく弱さと向き合う強さもないという意味で二重に弱いからこそ、強がって尊大になるのだけど、二重の恥ずかしさを自己一致させて、単に恥ずかしいだけであるようにすれば、その一重の恥は罪に一致する、という意味で、境界性パーソナリティ障害における恥は罪と同義である。

自己愛は自尊心と同じで、自尊心はプライドと言い換えられるけど、対人恐怖症患者は、単純にプライドが高いのではなく理想が高いというのが根本にある、という意味で、理想が高いことによって特徴付けられる境界性パーソナリティ障害と、プライドが高いことによって特徴付けられる自己愛性パーソナリティ障害を、併発しているのだ。

一つの自我が現実我と理想我という二つに分裂した上で、それに対応して、等身大の自分が現実我の領域へ、身の丈に合っていない高すぎるプライドが理想我の領域へ、振り分けられることになる、というふうに、境界性パーソナリティ障害と、自己愛性パーソナリティ障害を、兼ね備えるようになったのを、対人恐怖症と、言っていいだろう。

現実が甘美な妄想によって覆い隠されて見えない。

そういう状態のほうが楽だと錯覚している間は、僕は行動的ではありえないだろう。

頭の中の自分の位置付けをいくら高めても体は付いてこないから、高低という二つに引き裂かれた自己を統一して、やらなきゃいけないけどやりたくないからやるべきことをやれない、という苦境から、抜け出すことこそ、行動不能に陥っている僕にとって、余儀なくされた課題である。

なぜならば、頭で考えている高いレベルによって覆い隠されることによって体で感じている低いレベルが見失われていても、高低を浅深と言い換えるならば、浅いところにいる自分から出発して潜っていって心の奥底の深いところで自分が何を感じているかという情報を入手してそれを浅いところに持ち帰って頭の考えに反映させるまでにケロッと実感を喪失しているようでいて、浅深という二つに引き裂かれた自己を統合して、浅すぎも深すぎもしない、中ぐらいどころにおいて、感じているレベルと考えているレベルを、自己一致させることを、可能ならしめるのでなければ、深いところで感じているレベルを浅いところで考えているレベルのまないたに乗せて、痛々しいまでに鋭く明瞭化して認識してしまうために、行動がつらい、という問題は、解消されないからだ。

若い頃までは、高低差という落差が大きすぎて、思考を実感のレベルに落とし込めなくて、逆に、対人恐怖症の重症化したものとしての統合失調症の患者のように、フットワークが軽かったにせよ、行動が億劫で、行動しなければならないことを思うと憂鬱になる、という、潜在していた、本来の自分の性格が、顕在化してきて、統合失調症の要素を半面として、備える、対人恐怖症が、兼ね備える、もう半面としての躁鬱病の要素が、表面化してきて、人生が鬱との戦いであるという様相を呈するようになってきた、今日この頃である。

自分以外の者たちを否定して劣位に貶めることによってそれとの比較における優越感という自己肯定感の麻薬のような快感に酔い痴れている間だけは鬱に陥らないでいられる、という仕方でしか、鬱に対する反動形成として躁的防衛を、為し得ず、そのような仕方で、低きに流れる傾向に逆らって高みを目指して努力することしか、できなかった、哲学者ニーチェのように、自己肯定感をべらぼうに高くしても、その分だけ、肯定されている、偽りの自己と、それによって、否定されている、真の自己の、高低差は、大きくなるばかりで、自分を大切にする方向とは、逆方向である、一つの自己を二つに引き裂く方向にしか、向かわないからこそ、早晩行き詰まるのだ。

対人恐怖症患者ニーチェは、対人緊張し切っていると同時に弛緩し切っているという両極端に引き裂かれた自己を統合しようとする方向とは反対方向に努力していたからこそ、統合失調症を発症した、すなわち、発狂した、という事実によって、如実に物語られているように、真の意味での自分を愛するということを偽りの自己愛と履き違えていたら、早晩行き詰まるのだ。

自己愛性パーソナリティ障害というのは、本当は自分を愛せていないという根っこにある問題と、向き合うことでしか、治らない。

緊張し過ぎていると同時に弛緩し過ぎているという両極端に引き裂かれた自己を統合して、ゆったりまったりとくつろいだリラックス状態を実現することこそ、本当に自分を愛せるようになることであると同時に他人を愛せるようになることである。

生真面目で張り詰めていてポリシーやスローガンという強迫観念的なもので心をガチガチに固めていて堅苦しいニーチェには、もっとリラックスして楽しんで、とか、もっと人生をエンジョイして、とか、誰かが言ってあげて、極端から極端へ走るばかりで程々な温厚さや適度な穏当さを欠いている性格を、両極端の中間である中庸においてアットホームでいられる性格に、改めるべく、目指す方向を、逆転させてあげなければならなかったのだ。
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