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2019年10月18日04:47

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統合失調症の精神分析

フロイトの精神分析は、心を三つに分ける議論だ。

意識と前意識と無意識の三領域に、心を分けるところに、フロイトの精神分析の真骨頂がある。

しかし、フロイトの精神分析を日本に紹介して大ベストセラーとなった『ものぐさ精神分析』を書いた岸田秀は、フロイトの心を三つで論じる議論を、単純に割り切って二つで論じ切って、意識と無意識という二つだけで心を論じ直した上で、これがフロイトの精神分析だ、としている。

フロイトは、後年になって、意識と前意識と無意識の三つを、超自我と自我とエスという三つに、該当する、としたのだけど、岸田秀は、超自我は自我に含められるから、自我とエスという二つだけで論じることができるとして、やはり、心を二つに分けて考える議論がフロイトの精神分析だ、としている。

確かに、岸田秀のように単純化されて解釈されても仕方のないような考え方も、フロイトはしていて、というのは、フロイトは神経症について、ユングは分裂病について、分析していて、神経症は、意識から無意識への抑圧として、論じることができるために、フロイトは神経症だけを取り扱っている限りにおいて、心を意識と無意識という二つだけで論じていても、差し支えは生じなかったのだけど、精神分析を、分裂病に、適用しようとしたときに、意識と無意識の二つだけでは論じることができなくなって、二つの中間に前意識というもう一つの心が存在して、合計で三つの心が存在する、と考えられなければならなくなる。

フロイトによれば、抑圧とは、意識から無意識への抑圧だから、岸田秀的に解釈されても仕方のないような、心を二つで考える議論の仕方も、しているのだけど、もし、三つで考える考え方を、徹底するなら、意識から前意識への抑圧、および、前意識から無意識への抑圧、というふうに、抑圧を、二段階に分けて、考えなければならなくなる。

神経症は一段階の抑圧だけで説明できるのに対して、分裂病は二段階の抑圧でしか説明できない。

つまり、抑圧否定しすぎて、否定の否定で、二重否定で、肯定に転じてしまっている、という意味で、抑圧しすぎて抑圧が利かなくなっているのを、分裂病と言うのだ。

家庭環境に適応するような自我を築き上げた結果として外部環境に適応できなくなっているのを神経症と言い、神経症的自我と外部環境との軋轢の結果として自我が崩壊したのを分裂病と言う、というふうに、一段階病んだのが神経症で、もう一段階病んだのが分裂病だ、と捉えることができる。

すなわち、抑圧することをブレーキを踏むことに喩えれば、ブレーキを強く踏みすぎてブレーキが壊れた、ということになろう。

抑圧癖が強まりすぎれば、抑圧を一段階の抑圧に留め置くことができなくなって、意識から前意識への抑圧、および、前意識から無意識への抑圧、という、二段階の抑圧を、一足飛びに、おこなうことしかできなくなる、という意味で、無意識から意識が飛躍してしまい、無意識と意識の間に挟まっているべき前意識の領域が間隙をなしてしまい、意識と無意識が陸続きをなさなくなって、意識が無意識に接しなくなるために、意識から無意識へは、抑圧する力を、及ぼせなくなってしまうのだ。

無意識という土台が意識の足場となっておらず、空中楼閣のように土台から浮き上がっているところに意識という上部構造が築き上げられている、という意味で、分裂病を、意識からの抑圧を一段階で留め置くことを可能にする、前意識の、形成不全と、捉えることができる。

本能が壊れた動物である、人間は、本能の赴くままに振る舞っていては環境適応的に振る舞うことができないので、人為的に作り上げられた文化という環境に適合すべく、子は親にしつけられて、本能を否定する理性を植え付けられなければならないのだけど、理性と本能の葛藤として、理性と本能の間に感情が生起する、という意味で、意識と前意識と無意識の三つは、理性と感情と本能という三つに、対応する。

理性とは概念的思考の能力であるとされる。

概念は言語と共に発生するもので、人間以外の動物と違って、言語使用する、人間は、現在目の前にあるものをそれしかないものとして受け取るのでなく、記憶や予想の働きによって時間の次元を開いて、現に与えられている環境構造全体に、過去に与えられた環境構造全体と、未来に与えられるだろう環境構造全体を、重なり合う部分に関して重ね合わせて、一つに重ね合わせられた多くの部分のうちのいずれをも、抽象概念xの具体例として、受け取って、具体から抽象へ、いわば身を引き離して、具体的環境構造を抽象化することによって、構造をさらに高次に構造化して、環境から世界というメタ構造へと超越して、環境から距離を置いて環境を対象化することを、可能にするのだけど、対象とは言語xの指示対象のことだから、言語こそ、自己と対象との間に、空間的距離を成立させる、という意味で、人語は、環境に、時空という世界を、上書きする。

発達心理学によれば、人間は、乳幼児期からの言語の習得の過程に際して、まず、言葉を口に出して言いながらでなければ考えられない段階から出発して、ついで、言葉を口に出して言いながらでなくとも念頭に思い浮かべながらならば考えられる段階を経由して、しかるのち、言葉を口に出したり念頭に思い浮かべたりせずとも考えられる最終段階に至る、というふうに、現実を言語という分類枠に入れて捉える思考習慣が身に付けば、意識の前段階である前意識に沈殿している言葉の意味を一々顕在化させずとも直に読み取れるという直感が形成されるのだけど、直感を根拠とすることができないために思考が妄想になる、分裂病患者における、時空という間が成立していないために、自他の間が成立していないこととして、説明できる、自己の内心が他者へと漏れ出て行く「つつぬけ体験」や、他者が自己の内に侵入して来て意志に反して何かをさせられる「させられ体験」は、言語のように構造化されているものとしての前意識が形成されていないことに、起因する。

前意識が形成されていないとは、理性と本能の葛藤としての、感情が、人情が、欠如している、ということだ。

リュムケという精神科医は、分裂病患者の「通じ合わなさ」の本質を「対人接近本能の減弱」として説明しようとしたのだけど、このことは、言語が根差している、感情が、本能と、見紛うほどに、心の深い古層をなしている、ということを、意味している。
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