mixiユーザー(id:766386)

2019年07月31日07:20

232 view

精神の死

僕は、これが自分だと思っている自分を演じているにすぎない。

僕には、自分はないから、自分以外の者を演じることしかできない。

偽りの外面を演技することによって隠さなければならないような真実の内面があるわけではない。

したがって、僕は、死の最後の瞬間まで、自分が本当に何を欲しているか、どう感じているか、つかむべくもないであろう。

これを自己同一性の障害と言って、同じ一つの自己が拡散して雲散霧消してぼやけているのは、もちろん、母親の愛情に恵まれなかったからにほかならない。

愛や肯定が多くのものを一つのものにするのに対して憎しみや否定は一つのものを多くのものにするからだ。

僕がぼんやりしていて頭が悪く物分かりが悪いのも、同一性が損なわれているからだ。

たとえば、コミュ障の原因として、コミュニケーションの場面で勝気な自分が出て相手を負かそうとしてしまう、ということがある、と気付けなくて、今までそういう面があることを僕がずっと分かっていなかったのも、本当は勝気な自分が存在するわけでなく、勝気という性格の担い手である自分が拡散して雲散霧消してぼやけている以上は、そういう自分を感じられず、したがって勝気な存在としての自分に気付けないし、対外的に一つの自分像を作って見せるために分散している多くの自分を思考によって統合して統一したときに、それが勝気な性格を帯びていることは、それを示して見せられた他者たちにとっては、火を見るより明らかでも、自分像は対外的なものにすぎないのにとどまっていて、僕の心の中にそういう像は結んでいないのである。

なぜ頭が悪い上に勝気な面がコミュニケーションの場面で出るか、と言えば、母親は、兄だけ育てて、僕を放置して、僕は兄に育てられたのだけど、兄は僕の考えをことごとく否定して一言も喋れなくさせて一方的に喋り続けた上に、兄は自分が思っていることを僕に分からせたいからという動機で喋っていたのでなく、自分が言いたいことを言っていたにすぎなかった、というふうに、コミュニケーションの場面で分からないことを言われて負かされてきた、ということが、原体験として、あったために、物分かりが悪い上にコミュニケーションの場面に勝ち負けの問題を持ち込もうとする癖がある、という厄介な人間が形成されたのだ。

思考の領域を否定されて育ったために思考の領域における負けず嫌いな性格が形成された、ということだ。

和やかに談笑しようという場面で、知的に上回ろうとしてしまう。

知的に優位に立とうとしたときに、劣位に貶められたと感じた相手がカチンと来て、喧嘩になる。

そうやって、いつも、どのコミュニティでも、厄介者として厄介払いされてきたし、僕の知的な営みが、本質的には、勝つためであり、言い負かすためである、という不純な動機に、勘付く者は、僕と話していて嫌気が差してきて、僕と話したくなくなるだろう。

僕のコミュ障は、そういう問題である。

斯くなる上は、自覚上の自分を否定して自覚できない無意識レベルの自分を肯定することを、心掛けることによって、無意識を意識化していって、自分像という精巧な錯誤を、よりぎこちなくない、より自然な、自分っぽいものに、近付けていくしかないであろう。

それをやろうとした作家に、三島由紀夫がいる。

育った家庭環境の中で男としか接してこなかった僕と違って、三島由紀夫とかニーチェとかは、女だらけの家庭環境の中の唯一の男の子だった、という意味で、僕と正反対なのに、なぜ僕と同じ同一性の障害に苦しんでいたのだろうか。

僕と正反対でも、愛されずに育った面があれば、同じ同一性の障害を来たすことになるのだろうか。

女だらけの中の唯一の男の子として育てば、もちろん女々しい男になるだろう。

学校へ行けば、男の子たちの社会で、女っぽいということで、女性的な面を、からかわれたり、いじられたり、いじめられたり、して、劣等感の塊に、なっていくだろう。

そして、本当は弱いからこそ強さに憧れて、劣等感ゆえのマウンティングをして、強弱や優劣についての価値転倒方程式を振りかざして、俺が強者だ、お前らは弱者だ、と言って、強気で勝気な性格を、作り上げていって、そういう自分を演技しようとするに至るだろう。

それに対して、直接的環境が兄だけだった僕は、男としか接してこなかったがゆえに、女々しそうでいてカラッとしていて雄々しい、というふうに、本当の意味で、強気で勝気で、むしろ、もしこう言ってよければ、本当は強いからこそ弱さに憧れて、三島由紀夫が反動形成ゆえの反感の対象としていた太宰治や、ニーチェが反動形成ゆえの反感の対象としていたショーペンハウアーに、惹かれる、ということになる。

方向が正反対なのだ。

三島由紀夫は、演技しているかのごとく演技することによって、演じている自分の背後に本当の自分が隠されている、ということを、本当は俺はすごいんだぞ、ということを、仄めかしていたのかもしれないが、そのような自己は存在しなかった。

ニーチェも弱いからこそ強がって、本当は俺はすごいんだぞ、と言って、自分自身を客観的に見れば、ひ弱なインテリにすぎない、という事実を、否認し続けていた。

このことこそ、三島由紀夫やニーチェが、弱い上に弱さを弱さと認めることができる強さもない、という意味で、二重に弱い、ということを、意味しているのだろう。

しかし、僕も、過去は恥ずかしくて思い出せないのは、単に恥ずかしいのでなく、恥ずかしいことが恥ずかしい、というふうに、二重に恥ずかしいからこそ、恥ずかしい自分と向き合えないのだ、というふうに、考えれば、僕も三島由紀夫やニーチェと同類なのではなかろうか、とも思えてくる。

弱気で内気な面と、強気で勝気な面を、併せ持つ、対人恐怖症。

もちろん、必ずしも思考の発表の機会は必要とは限らなくて、思考の結果を発表してスッキリしてケロッと忘れて思考の結論を覚えていることができなければ、発表する意味がないわけで、思考を一人で悶々と抱えることによって心の中に持ち続けることができるならば、そっちのほうが思考が進歩できるので、ここは、ここら辺で、口を閉ざすことにしよう。

ここは、多くを語り過ぎないことこそ肝要だ、という結論で、締め括ることにする。
3 3

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する