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2019年06月06日12:01

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パスをパスするということ

たまたまめくっていた古いノートにこんなことが書きつけてあった。まだ柳田の文化的創造論の話が終わっていないのだが、どうもあまり評判がよろしくないようなので、一休みしてこの話をしてみる。文化創造の話に関係がなくもない。

峠の語源は「たわ」もしくは「たをり」であるらしい(柳田国男「峠に関する二、三の考察」『秋風帖』)。タワというのは山の稜線が凹んで低くなっているところのことである。洋語直訳として今では鞍部などと呼ばれているらしい。このタワを越えること、つまり「たわ越え」が縮まって「とうげ」になったという。

旅人が山に面したとき、山すそを迂回するのがあまりに遠回りであれば、山を突っ切って向こう側に出ようとする。その際に目ざすのが山の峰々より一段低くなっているこのタワである。水もこのタワから流れ出ることが多いから、自然にタワに向かって峠道ができる。

この「たわ」は「たわむ」とか「たわわ」とも関係があるようだ。枝などに実が多くなって曲がることを「たわむ」とか「実がたわわになっている」などという。また、「たわごと」「とか「たわむれる」の「たわ」も緩むとか弛緩すると意味から緊張の欠如、品行の乱れなどに結び付けられたのかもしれない。

「たわむ」という動詞が最初にあってタワという地形名称が生じたのか、その逆なのか不明なのだが、山の多い日本では、移動の際に山を越える必要に迫られることが多かったから、そうした地形をわざわざ名づけるだけの理由があった。英語では峠を何というか調べてみたが、一語でこれを指し示す単語はなさそうだ。カイバル峠のような地名にはパス pass という語が用いられているが、この一語だけでは何のパスやらわからない。特に峠を意味するには mountain pass などと形容語を付さないとならない。

やはり文化がちがうのかと思ったのだが、ここで気になったのがパスの意味である。山並みのあいだを「通る」からパスなのだろうが、日本の峠にも「たをり」の別名がある。これが「通り」という名詞や「通る」「通す」という動詞とも関係があるのだろうか。こちらで「試験に通る」ことをあちらでは「試験にパスする」などと言ったりするのである。

「通る」という動詞は昔からあって、すでに現在とほぼ同じ意味で使われている。しかし、辞書を引いてみると、この言葉には互に脈絡のなさそうな複数の意味がある。まず、「電車が通る」のような空間上を移動する動きを示す意味。もう一つは、「その通りだ」とか「注文通り」のように、「そのままそっくり」という意味。また、「一通り試してみた」のように、何かの「一式」「一揃え」という意味もある。ぼくらは大して気にせずに使っているが、外国人などが日本語を学ぶときには、きっと理解しにくい単語だ。

実際、日本語を母語とする自分らにも、なぜにこんなバラバラの意味が一つの単語に含まれるのか、すぐにうまい説明が浮かんでこない。しかし、「たわ」という単語を媒介させると、この意味がつながってくるようなのである。

まず「電車が通る」の「通る」であるが、単に「動く」という以上の意味があって、ある地点から別の地点へと移動という意味が含まれる。例えば、「トンネルを通った」と言うときは、トンネルの外から中へ入って、また外へ出たことを意味する。「トンネルを途中まで通った」というのは、まだトンネルをぬけていないから少しおかしな言い方である。「〇〇を通って××に行く」というときも、場所の経由であるから、出発点も到達地も〇〇の外にある。

峠を越えるときもまた、峠自体は通過点にすぎないから、タワを突き抜けて山の反対側に出ることを「とおる」という動詞を使って表したとしてもおかしくない。いや、むしろ、タワを越えるという具体的な行為を指示する動詞が、のちに抽象的にある地点を通過すること全般を意味するようになったのかもしれない。「やり通す」なんていう貫徹の意味の「通す」も、またここからでてくる。

じゃあ、「その通り」とか「注文通り」とか「思い通り」の「通り」はどうであるか。これもやはりある目的地に向かって進むという意味からの転用であるように思える。「通す」という動詞を介するとより分かりやすい。「通す」は「通る」の他動詞、つまり何かを「通らせる」ことである。「針に糸を通す」とか「自分の意志を通す」などとわれわれは言う。それある狭いところをくぐり抜けて、その向こうに到達させることである。これも高くそびえる山並みのはざまを縫って向こう側へ出る「タワ越え」と結び付けるとわかりやすくなる。

そして、「通り」は二つの地点間の行程でもある。だから、転じてある過程全体という意味にもなる。「その通りである」というのは、人の言ったことなどがその議論の行程すべてにおいて賛成できるという意味である。「注文通り」とか「思い通り」というのも、自分の意図がすべての行程にわたって貫徹されたという意味になる。

最後の「一式」「一揃い」という意味の「通り」はちょっとむずかしいが、これも行程の貫徹と関係しているのは間違いない。ある目的地に達するために経なければならない一連の手続きや手段をすべて含めたのが「一通り」であろう。

峠の英語名であるパスを介して、「峠」と「通る」のあいだに見えない連関を推論してみたのだが、もちろん自分ばかりの直感であり、証拠があるわけでもない。よしんばまちがっていなくても、これだけだとタワいもない話にすぎない。なぜにこんなお蔵入りの話を今になって引っ張り出したかというと、先日日記にした修辞と関係があると気付いたからだ。

怪しいのであるが、話の都合上、「たわ」から「とおる」が生じてきたという仮説が正しいと仮定してみよう。トオルというのは、元々山を越えるのにタワを抜けていく具体的な行為を指示する動詞であった。そこから、二点のあいだを移動するような抽象的な動きを意味するようになる。その抽象的な意味からまた、「その通り」とか「一通り」なんて言い回しも出来てくる。そして、もともと一種の譬えであり言葉の「あや」であったものが、言葉の正しい意味として認められ、辞書にもその意味が併記されるようになる。

なぜそんなことが起きるかというと、世界に起きうる現象は限りなく多様であるにもかかわらず、ぼくらには限られた言葉のストックしかないからである(佐藤信夫『レトリック感覚』)。新しいことを指し示すために、いちいち新語を造ってもよいのだが、創造力と記憶力の節約のため、できるかぎり手もとにある言葉を類推を用いて転用する。

そのため、一見バラバラに見える言葉のあいだには糸が「通る」ことになった。しかし、言葉の意味が具体的対象から離れて概念化し抽象化していくにつれて、この糸は見失われる。言葉が抽象化、概念化されれば、感覚世界から距離を置いて言葉の上で世界を統合する形而上学のようなものができてくる。いわば、言語上において、世界全体が一本の糸で貫通された一つの連関体系として整理される。

そのうち形而上学が現実と齟齬をきたすようになって破棄されると、言葉の意味のあいだの脈絡は切れてしまう。そうなると、語彙数や単語の意味の数がどんどん増えて、ぶ厚い辞書だけが残される。頭の中も引き出しの数ばかりが増えるけど、そうしていくら覚えても言葉が不足して、どうにも言い表せないことが増える。

だが、世界は完全にはバラバラになっていない。ぼくらは今でも修辞を使ってバラバラになった世界の破片をまたつなげようと試みる。なかなか言い表せない現象を、手もとにある言葉を転用(濫用?)して言い表そうとする。もともと言語自体が少ない語彙を修辞によって膨らましたものだから、言語能力を習得すること自体が意味世界の連関を体得することでもある。論理的には成り立たないはずの修辞を人がたやすく理解することができるのは、きっとそのためだ。

言語活動を通じて、どうもぼくらは気付かぬうちに、常にバラバラの世界を崩しては組み立て直しているらしい。現在の自然言語は、そうした活動の成果と残骸が一緒くたになったものであるらしい。

言語というのは文化の最たるものの一つであるが、奇妙な性格を持っている。われわれにとって使い慣れた道具なのであるが、同時にまた底知れない謎を秘めている古代遺跡のようなものでもある。自分が創造したわけではないから、その奥底には見通せない闇がある。だけども、言語は神様が作った自然の一部ではない。やはり人間の手になるものだ。だから言葉の謎は必ずしも神秘ではない。この古代からの遺産を尊びつつ、結局はこのよくわからんものを、自分たちの当座の必要に応じてどしどし加工していってしまう。それだけの自負を、ぼくらは欠いていない。
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