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2019年06月01日17:27

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生存の意義に関する一考察

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは「なぜ私は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなのであって、他の誰でもないのか。なぜ私は、姉マルガレーテ・ウィトゲンシュタインでもなく、友シュリックでもなく、師ラッセルでもなく、この私以外の誰でもなく、他ならぬこの私なのか。」と問うた。

そもそも、私という言葉は物理法則には書かれていないのにもかかわらず、なぜかこの私はこの世にたった一つだけ存在していて、物理法則においては、同一事情のもとでは同一現象が引き起こるという自然の斉一性の原理が、成り立っているのにもかかわらず、同じく人体が脳を機能させているという同一事情のもとで、無数の他者たちのうちの或る特定の一つだけがなぜか自己として現象している。

もし、外界の他者たちだけが存在していて自己という例外は存在しないのであれば、自然の斉一性の原理に基づく物理法則は成り立つわけだけど、現実問題として、物理法則を超えた何かが、すなわち、私の心が、ある。

そして、私の心が腕を上げようと意志すれば意志通りに腕が上がる、というふうに、心の動きに物の動きが連動する、行為と呼ばれる出来事において、心が身体という物体の動因になっている、という、反唯物論的心身連動順は、物が心を生み出しているのでなく、私の心が、私の行いの結果として、私の世界を、すなわち、物で出来た外界を、生み出している、という、因果順を、意味している。

つまり、外界の他者たちは私が私の世界に投影した映像にすぎず、他人たちに心は存在しない。

このような考え方に基づく議論を、哲学用語で、独我論と言う。

もしも独我論が正しいならば、私が死んだら世界は消えるのか。

自分の構成していた世界は消滅する。

しかし、いまだ生存している他人たちの構成している世界は残存する。

つまり、私の世界の他人には心は存在しないにせよ、他人には他人の世界があって、その世界に住んでいる他人には心は存在するのである。

このように、一人一人違う世界に住んでいるのに、なぜ共通の外界を共有し得るのか、と言えば、たとえばサラリーマンにはサラリーマンの世界があって、サラリーマンたちは行いを同じくする者同士だから同じ世界に住んでいて心を通い合わせることができる、というのと同じように、同じ行いが同じ人間界を生み出しているために痛みを分かち合うことができるのだ。

地獄界の衆生は悪い行いの結果として同じ一つの地獄界を生み出してそこに住んでいるのだけど、痛みを分かち合う精神をかなぐり捨てて、自分だけ地獄から抜け駆けしようとした、カンダタは、頼みの綱としていた、釈迦が浄土から垂らした蜘蛛の糸が、切れて、地獄の底へ舞い落ちた。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』によれば、浄土から垂れてきた蜘蛛の糸を真っ先に発見したカンダタは、それにつかまってよじ登って行くうちに、自分以外の地獄界の衆生たちが後に続いて下からよじ登って来たので、重みで糸が切れると思って、自分以外全員を振り落とそうとして揺さぶったために、糸が自分の上でぷちっと切れて、自他諸共に、地獄の底に舞い戻って、釈迦に「縁なき衆生は度し難し」と嘆息させた。

このように、善い行いの本質は、利他であり、それは、自利になり、みんなで一緒に幸せになろうとする、自利利他の行者は、自分だけ幸せになろうという心得違いを犯している、我利我利亡者よりも、幸せになれるのだ。

というのは、長い目で見れば、どんなに遠い迂回路を辿ったとしても、回り回って自分の行いの結果は巡り巡って自分に返ってくる、という自業自得の道理が成り立つからだ。

だからこそ、情けは人のためならず、と言われる。

善い行いを積み重ねれば、塵も積もれば山となるで、いつか山の高さは閾値に達して、神仏に救われて不退転の境地に至れる時が来る、と、キリスト教でも、仏教でも、説かれている。

話の結末としては、一切衆生は、いつかは救われる。

キリスト教で言う、天国に、仏教で言う、極楽に、死ねば連れて行ってくれる、という神仏からの確約を、死ぬまで揺るぐことのない確信を、貰えるのである。

人間が自分の力で信じるから救われるのではない、神仏から信じる心を貰うから救われるのである。

パウロも、親鸞も、生きているうちに、啓示の光に打たれて心の闇を破られて、神仏から貰った信心による回心の瞬間を体験して、救われている。

善行をやろうとしてみなければ、善行を出来ない自分と思い知らされることは、ありえないから、善を行おうとして実践しなければ、救いというゴールに近付くことはできない。

善行をやろうとして、力及ばず、善行を出来ない自分だった、と、神仏の光によって、自分の正体を、明らかに照らし出されて、救われる、瞬間までは、自分の力で善行を積み重ねているつもりになっているのだけど、救われた時点からは、無明の闇を破られて救われる時点まで神仏の思し召しによって光に向かって進まされていただけだったことが自明なのである。

キルケゴールが説くように、神仏から人へは連続的であり、人から神仏へは非連続的である、というふうに、救いが訪れる時点までは、ハーフミラーになっている。

「腕を上げようと意志することはできる。しかし腕を上げようという意志を意志することはできない。」とルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは言った。

意志を意志することができるのは、人間ならぬ神仏である。

神仏の意志通りに人間が意志しているだけなのだ。
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