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2019年05月25日21:22

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子等の放った御影石

思考をざっくり二種類に分けることができる。

物という表面を上滑りする即物的思考と、表面と直角に交わる方向に掘り下げて表面を突き破って心という内面に至る思考。

理系的思考と、文系的思考。

あるということについていかにあるかとHOWを問う論理的思考と、あるということについてなぜあるかとWHYを問う原因追求型思考。

健常者たちは、どっちの思考も、できる。

論理的思考は論理的思考で、原因追求型思考は原因追求型思考で、できる。

僕は、論理的思考と原因追求型思考を同時に組み合わせてしか思考を発動させることができなくて、すべてを表層の思考のまないたの上に乗せているために、思考の脈絡が入り組んで複雑化するのだけど、健常者たちは、論理的思考を表層でやっているときは原因追求型の情報処理も深層でやっていて、原因追求型思考を表層でやっているときは論理的な情報処理も深層でやっていて、心で感じているレベルを頭で考えているレベルに反映させていないだけで、深層の直感に裏付けられながら表向きの思考を営んでいる。

つまり、病的でない健全な思考においては、表層の意識を水平方向に進みながら同時に深層の無意識へ垂直方向に下りていく、というふうに、立体像を結ぶ思考ができているのに対して、僕は、すべてを表面化させなければ思考できなくて平板な平面を突き進んでいる、ということ。

二次元の平面の表面を撫でる思考だけでは、三次元の立体の立体視ができないために、応用が利かない。

だから、前進しているようでいて堂々巡りしているのだけど、ループをなしているようでアングル変えて見れば螺旋階段をなしてちょっとづつ上昇している、というふうに、じつは思考の道筋が立体的次元をなしているために、足踏みしているようでいて、亀のように遅くても、同じことの繰り返しでも、その意味や深さは違う。

僕は、常に既に、立体的世界の住人なのだから、そんなに意識しなくていいのだ。

ということで、自分はかくかくしかじかでしかありえないと執拗に嘆くのはやめよう。

かくかくしかじかでしかありえない自分を受け入れて肯定することからがスタートだ。
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