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2019年05月12日15:11

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自意識過剰なムカデの苦境

概念は言語と共に発生する。

たとえば、人間という言葉は、この人間でもなく、その人間でもなく、あの人間でもなく、どの個別の具体的な人間でもない、人間一般という抽象概念を、括り出すものだ。

概念による概括は、言葉の作用である。

或いは、もっと抽象度の高い概念を挙げれば、たとえば、数学における数の概念。

2+3=5という数式は、人間2人と人間3人が集合したら合計人間5人であるとか、リンゴ2個とリンゴ3個の集合は合計リンゴ5個であるとか、鉛筆2本と鉛筆3本の集合は合計鉛筆5本であるなどという、具体的な諸事実から抽出してきた真実を、概念として、言い表す、言葉である。

そして、概念が抽象されるところでは、具体性は捨象される。

睡眠時に、無意識に対する抑圧者である理性が失われることによって、覚醒時に、潜在していた、無意識が、顕在化してくることによって、立ち現れる、夢が、目に見えない抽象概念という形を取るのでなく、目に見える具体的なイメージという形を取るのは、夢を見るということが、概念による抽象的思考の能力である理性による具体性に対する捨象という抑圧から解き放たれることによって、可能になることだからだ。

夢でない現実においては、捨象されていた、具体性が、現実でない夢においては、拾い上げられて、たとえば、平和という目に見えない抽象概念は、平和の象徴である鳩という目に見える具体的なイメージによって、代表される。

平和は、代表者となる鳩山さんのように温厚な鳩という具体例によって、喩えられるし、怒りを、炎で、喩えたり、生命活動全般を、水に、喩えたりなども、夢の象徴的表現である。

哲学者カントは「統合失調症患者とは目が覚めたままで夢を見ている人である」と言ったのだけど、抽象概念を具体例に置き換える比喩による統合失調症患者の自由奔放な連想が、健常者たちにとって、夢の中のストーリーみたいな支離滅裂なものにしか聞こえないのは、比喩が何を喩えたものかが分からない隠喩をなしているからだ。

隠喩において、暗示されているものは、明示されてはいない。

このような、統合失調症患者における、しらふのままで酔っ払っているかのような、理性による抑圧からの解放は、なにゆえに可能になっているのだろうか。

統合失調症とは、意識と無意識という両極端に引き裂かれた自己を統合できないということで、意識と無意識という両極端の中間に位置していて両極を統合する働きを担っている前意識の機能の失調によるものである。

意識し過ぎて緊張し切っているのでもなく、意識し無さ過ぎて弛緩し切っているのでもなく、その中間である、適度なリラックス状態を、実現することを、可能にする、意識内容を抑圧して前意識という頭の片隅に置いておくことが、統合失調症患者には、できなくて、頭の片隅に置いておこうとすれば抑圧しすぎて無意識という忘却の彼方に追い払ってしまう。

意識を抑圧否定したら前意識になり、前意識を抑圧否定したら無意識になる、という意味で、統合失調症患者は、否定しすぎて、否定の否定で、二重否定で、肯定に転じてしまっている、すなわち、抑圧しすぎて、抑圧が利かなくなってしまっている。

このように、意識と無意識が離れていてその間を媒介する前意識が成立していないから、目が覚めたままで夢を見ている、という離れ業が、可能になるのだ。

このような、統合失調症患者にとっては、世界が裏返って剥き出しの敵意に満ちた反世界になっている。

被害妄想で攻撃的になっていて修羅と化して世界中を敵に回して孤独に戦っている。

そのような、悪夢を見ている、統合失調症患者も、いる。

統合失調症とは、意識と無意識という両極端に引き裂かれた自己を前意識によって統合する機能が失調しているということだから、両極端のグループに分かれる。

意識が顕在化していて誇大妄想を主症状とする、パラノイアと呼ばれるグループ、および、無意識が顕在化していて被害妄想を主症状とする、スキゾフレニアと呼ばれるグループ。

パラノイアである僕の何かについての説明を聞く者は、何て念入りに考えられた誇大妄想なんだ、と思うだろう。

スキゾフレニアとは、直感だけで思い付きだけで行動するから、天敵から逃走する森の小動物シマリスのように、フットワークが軽いのに対して、パラノイアとは、偏執狂と訳される通り、論理の筋道をつけることにこだわって、こじつけから出発する思考を体系立てていって、妄想体系を、実感の沸かない考えを、どんどん年季が入った詳しいものにしていく、鈍重な大体系家である、というふうに、好対照をなす。

精神分析学も、社会学も、個と環境の社会関係を、扱うのだけど、僕のコミュ障は社会性の障害なので、個と環境の社会関係を、考察する必要がある、ということで、家庭環境分析から出発する自己分析である、精神分析を、これまでは学んできたのだけど、そろそろ僕も若くないので、これからは家庭環境に原因を求める原因論は封印して、社会学の基本姿勢である、現状分析に徹して原因追求に走らない姿勢を、僕の基本スタンスとしよう、ということで、以上に、統合失調症とは如何なるコミュ障であるか、過去に遡及することなく現状のみに言及するスタンスを守りつつ、縷々述べた。
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