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2019年05月10日20:12

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メロスは激怒した

西洋哲学史は、古代ギリシャから始まる。

古代ギリシャの哲学者たちは、万物の根源を問うて、各自の答えを出した。

万物の根源は水であるとか、いや万物の根源は空気であるとか、いや万物の根源は火であるとか、いや万物の根源は地水火風であるとか、めいめい思い思いの哲学を、主張している。

まるで物理学の出来損ないみたいな、これらの哲学説は、もちろん、仮説にして比喩である。

仮説への大胆な飛躍から出発して仮説から導出される結論が観察事実と一致するかを検証する仮説演繹的思考も、喩えられるものから喩えるものへの大胆な飛躍から出発する比喩的思考も、本質的には同じである、ということを、ここに、見て取れるだろう。

たとえば、万物の根源は火であるという仮説はどんな比喩なのか、と言えば、火は、すべてを焼き尽くして戦後の焦土にするものである、という意味で、怒りの比喩である。

短気は損気と学んで怒りを抑える訓練を重ねて、目の前に積み上げられた積み木があれば崩そうとする乳幼児は、大人になるまでに破壊衝動を建設的な方向に向け変えて、破壊衝動の昇華として、文明や秩序愛は、ある、という意味で、怒りこそ、すべてを形作っている根源で、戦争に懲りてこそ世界平和を希求する心が生まれる、という意味で、万物の根源は火である、と言った、哲学者ヘラクレイトスは、戦いこそが万物の父である、とも言った。

つまり、哲学史は、怒りをはじめとする心という目に見えない抽象的な概念に到達するまでに、水や空気や火や地水火風のような目に見える具体的な物という比喩から出発しなければならなかった、ということだ。

個体発生は系統発生を繰り返す、と言われるが、個人史も人類史を繰り返す。

たとえば、個人史の始まりにおける母国語の学習。

外国語の学習と決定的に違うところは、単語の意味の説明を理解した上で、単語が組み合わされた文全体を理解する、というふうに、ボトムアップ式な思考だけで習得できるのが、外国語なのに対して、母国語の習得に際しては、言葉のシャワーを一身に浴びながら、こういう文脈全体内に埋め込まれてる単語だからもしかしたらこういう意味じゃないか、という仮説への大胆な飛躍から出発する、雪崩の如く繰り出される、古代ギリシャの哲学者ばりの仮説からの天下りをなす、トップダウン式の思考が、物を言う、というところだ。

哲学史の始まりにおける火という仮説への大胆な飛躍から出発した思考が洗練されて火の具体的イメージから戦いや怒りというもっと抽象的な概念へ行き着くまでの思考過程については、言葉を敷き詰めた理詰めの理解の仕方だけでは分からないけれど、雰囲気を味わうことならば、出来る、というものだろう。

このような詩の雰囲気を味わえる感性こそ、間違いを恐れない大胆さこそ、細かいことを何も考えずに所与をそのまま受け入れることができる知性の大雑把さこそ、自己肯定感に裏付けられたほんわかとした心こそ、母国語の習得において、必要とされるのだ。

こうまで説明してくればもう、万物の根源が火であるという言葉は、確かに真実らしいことを言っているように、聞こえてくるだろう。

人は怒らされた上で怒りを表に出せなくさせられて、社会化される。

怒りのエネルギーを生産的なエネルギーに転換する。

まさにそのような理性による感情の抑圧こそ、意識と無意識の二重性こそ、物と心という二つが二重にダブって見えることを、すなわち喩えるものによって喩えられているものを見抜くことを、可能にする、条件である。

人間らしさのもとは、理性と感情の葛藤。

喩えとは、たとえば、「イチローは鹿のように速く走る」というふうに、「〜のように」という言葉によって、言い表される。

イチローが喩えられるもので、鹿が喩えるものだ。

「〜のように」という言葉を用いるのが直喩で、「イチローは鹿である」というふうに比喩と明示しないままで喩えられるものを喩えるものに置き換えたのが隠喩である。

このような隠喩を、使用することの困難に、起因することとして、言葉を無味乾燥な記号に陥らせる自閉症児の言葉の発達の遅れがある、というのが、精神分析家ラカンの見解である。

ラカンはワカラン、と、しばしば言われる。

虚数とは男性の勃起性の器官である、などと訳のワカランことを、何の説明もなしに、ラカンは言う。

ラカンにしかワカラン比喩なのだろう。

ぶっ飛んでいる。

もしかしたら、ラカンは、社会に対して怒っていて、行き場を見失っている怒りを、一見何を言っているのかワカラン意味不明な謎めかしているかのような煙に巻いているかのような言葉に、じつは込めていて、それを見抜いてほしがっているのかもしれない。

もしかしたら、日本の現首相は、内に秘めた社会への怒りを、政治家としての活動の原動力としているのかもしれない。

激怒している。

内心大激怒している。

顔で笑って心で泣いて、泣きながら大激怒している。

裏は裏で隠し通して、表向きは穏やかに和やかに振る舞って見せる修行こそが、人生だ、と覚悟決めて、修行を実践しているうちに、表面上の愛想でない内心からの慈悲が、愛が、滲み出てくるようになる。

そう言った、二重性として、心が汚れて黒くなることの功罪は、ある。

汚れた大人には深みがある。

ムシャクシャが解消されてスカッとする犯罪でない自分なりの方法を、見出して、犯罪者予備軍が犯罪者になる一歩手前で踏みとどまっている。

そのような危うさと隣り合わせのところに人間らしさがある。

病んでいる。

ミスチルの歌詞にあるように、「皆病んでる」。

表に出せない、負の感情を、社会的に承認される形式に変換して、表現している。

表に現れているのは隠喩表現なのである。

表象としての世界の裏には意志としての世界が潜んでいる、と哲学者ショーペンハウアーが言っている通りなのである。

意志とは、無方向無軌道な生命衝動であり、多方向へ炸裂する欲望であり、これの向きを変えて、戦い合い力を弱め合い滅ぼし合うことの愚かさや悲惨さを思い知って力を強め合うように方向を揃えて一本化して協力を可能にするのが、表象としての世界であり、物象としての世界なのだ。

心という意志の物象化こそ、世界である。

そういうことを、つとに、古代ギリシャの哲学者たちは、看破していて、それを隠喩表現していたのだ。
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