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2019年02月17日22:46

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景清屋敷

平景清の屋敷と伝わっている。平性であるが元は藤原忠清の子であり、平家一門の侍大将として伊藤景清、藤原景清、悪七平衛とも名乗っていた。その活躍ぶりは源氏の那須与一、平家の平景清とまで言われており源氏との戦いの最中に源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ、鎧兜の首回り)を素手で引きちぎったという逸話「錣引き」で知られている。寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦い、寿永4年(1185年)の屋島の戦いで活躍するも同年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したため源氏に投降した。

源頼朝はその武勇を惜しんで処罰せずに常陸国の小田城主、八田知家に預けられたが景清は源氏の世になるのが忍びなく絶食し建久7年(1196年)に餓死したと伝わる。また投降した際に今後の源氏の繁栄を見るのに苦しんで両目を抉ったとも伝わる。愛知県大府市にある景清屋敷は平家滅亡後にこの地で隠居したと伝わるもので現在は景清神社となり当時の芹沢井戸が残る。この地で生き別れた娘の安否と平家一門の供養を行い、観音経や千手観音を彫るなどしていた。この地にある常福寺の本尊はこの千手観音である。

しかしこうした景清の伝説は類似または関連した内容で茨城県、千葉県、神奈川県、新潟県、三重県、滋賀県、京都府、大阪府、奈良県、島根県、鳥取県、山口県、宮崎県、鹿児島県、熊本県に伝わってる。
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