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2019年02月17日16:14

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清須代官所

天明3年(1783年)に造営され明治元年(1868年)に廃された。清州陣屋とも呼ばれている。少々調べて見たものの詳細な歴史は分からなかった。尾張藩がこの地を統治するために造成した物と思われる。

これとは別に古くから水害の被害を幾度も受けていた清州の住民たち「清須14ヶ村総庄屋」は1700年代後半から吉野村の丹波義造を中心に庄内川の治水を尾張藩主に直訴していたものの、財政難のため時の9代藩主・徳川宗睦(むねちか)はこれを退けていた。しかし安永8年(1779年)に庄内川の氾濫によって名古屋の城下町も浸水被害を受けたため遂に庄内川の分流工事を決断する。幕府の支援も得た尾張藩は天明4年(1784年)に庄内川から伊勢湾までを結ぶ新川(しんかわ)を竣工し40万両以上の総工費を費やして天明7年(1787年)に完成した。しかしこの治水工事は尾張藩の1年の収入をもってしても賄えるものではなかったため、担当役であった人見弥右衛門と水野千之衛門が工事の中断を懸念して予算の過少申告を行っていた事が発覚したが宗睦は2人を降格処分にとどめ工事を完成させている。しかし水害復興と治水工事によって財政は窮乏していくばかりであった。

代官所が作られたのは工事が行われる前年であるため河川流域の統治や工事の指揮所として作られたものだったのではないだろうか。

代官所は東海道と中山道を結ぶ美濃路にあり、街道にあった六角堂集落と代官所を結ぶ役所道があった。そして当時の村の境に位置し、今でも清須市と稲沢市の境である。この境を流れる古川用悪水路を跨ぐようにしてを渡る役所橋が復元されている。また付近の個人宅には玄関部分が移築され現存している。
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