mixiユーザー(id:492091)

2019年01月08日01:12

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映画『ボヘミアン・ラプソディ』をやっと見てきました。

遅ればせながら、やっと見てきました。
そこでこの記事を改めてこの記事を読み返してみました。そこで感じたのはあの「ライブエイド」で「伝説のチャンピオン」を歌い上げるフレディに、“カナシミ”なんて微塵もなかっただろうということでした。
 もちろん病が発覚し、自分が近い将来どうっていくのか、うすうす覚悟の上のことだったでしょう。しかしきっとこの曲を「ライブエイド」で歌い上げているフレディは、自分のことを絶対に負け犬なんかに思っていなかったはずです。そしてゲイであることも、何等後ろ冷たいことはなく、むしろ同性を愛することに誇りにさえ感じていたことでしょう。
 自分が他人と全く違う感覚があることに太宰治は自らのことを人間失格として卑下しました。フレディの場合は、逆にそれが才能なんだと捉えていたに違いありません。
 だからこそ、自らの逆境を抱えながらも、「人間合格」を高らかに歌い上げる「伝説のチャンピオン」のシーンに多くの観客が感動し、感情移入する原動力となって、映画の大ヒットにつながったのです。
 ただ映画としては、メアリーとの別れや独立の過程、そしてパートナーを追放してしまう件などかなり駆け足で、人間ドラマとしてはイマイチと感じました。
 やっぱり『アリー スター誕生』のふたりが出会うシーンの劇的な描写と比べるとフレディの転機となった重要ポイントでの描き方に物足りなさは否めません。

 この映画がヒットしているのは、映画としてでなく、ラストに見せるフレディの圧倒的パフォーマンスが評判となっているからだと思います。
 本作がフレディを美化するあまりに彼の人となりを詳しく掘り下げていなくて、どの年代もサラリと触れるに止まっているのことを「虚像」と捉えるのは一面的だと思います。確かにフレディには映画で描いた一面もありましたし、映画ではあえて描かれなかったバッドイメージにつながる私生活もありました。
 たとえばメアリーと別離する原因が、ゲイに走ったのならともかく、実際はエレクトラ・レコードの重役のアメリカ人と浮気したため破局したのです。これではメアリーがいたたまれませんね。また、セックスには奔放でした。女性とも男性とも恋愛関係を持ち、また、多くの老若男女を招いて乱交パーティーをたびたび行っていたなんてシーンを本作に挿入していたら、フレディのイメージがグンと下がっていたことでしょう。
 映画には、目的があり、あるテーマに向かって絞り込む必要があります。本作がクイーンとフレディについて再び世界的関心を惹き付け、フレディが伝えたかった一人ひとりが負け犬ではなく勝利者なんだというメッセージに勇気づけられる人が続出したなら、帰天し天使となったフレディも使命が果たせて本望に感じるのではないでしょうか。
 
 伝記映画は総じて総花になりやすく、どこを思い切って掘り下げるか難しいところです。
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