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2018年12月17日14:33

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神と死

(この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。)

私とジーザスが契りを結んでからというもの
ひとときだって二人は離れなかった
この手に受話器
心には信仰

いつだって彼を呼び出せる
いつだって彼を呼び出せる
さあ、私に臨終の床を準備して

死ぬのはつらくない
死ぬのはつらくない
死ぬのはつらくない
ジーザスが私に臨終の床を準備してくれるから

――ブラインド・ウィリー・ジョンソン

 ある歌によって人生が一変させられるということはありえない話ではないし、それだけならことさら大騒ぎするほどのことでもない。それでも、病床でこのブラインド・ウィリー・ジョンソンのゴスペル・ブルースを今一度聞くとき、自分の運命との結びつきに深い感慨を懐くのを避けることができない。しかし、そのつながりは一本のまっすぐな糸ではなく、幾重にもほつれていて、解きほぐすことは容易でない。いちばん簡単なところから解きほぐすと、キリスト教徒でも何でもない自分には、ジーザスを死出の旅の伴侶とすることにはあまり重要な意味は見いだせない。それにもかかわらず、絶望的な生と死と信仰の関係には深く心を打たれざるをえないのである。世界に愛するものが何もなくなり、世界中から憎まれる存在となった者にたいしてさえ、神はわざわざ電話線をその宮殿に引き入れ、いつでも飛んでくる思いやりをもちつづけるのだ。少なくとも多くの人がそう信じてきた。
 これを電話の発明に帰するのは誤っている。通信技術の飛躍的な発達がわれわれを分け隔てる距離の暴力を緩和するずっと以前から、神との通信の回路は開かれていた。われわれがソーシャル・メディアによって四六時中同胞につながるずっと以前から、われわれは神とつながっていた。そしてそこには最初から(衝撃ニ備へヨ!)「死」という文字が刻印されていた。これは厳然たる社会事実であり、けっして軽く扱われてよいような話ではない。これが人類の種の保存のためにどれほどの貢献をしてきたか、ちょっと想像してみてほしい。この信仰がなかったら、世界全体からこれでもかと逆境や苦難を投げかけられる無力な個人たちが、どのようにして厚かましく生にしがみついていくことができたのだろうか。そういう人間の数は多くないかも知れないが、人類の保存と発展にとって大切な才能の多くはこうした人々のなかに見出せたのではないだろうか。我々の多く――この不遜な無神論者ども――は、そうした人々の末裔ではないか。まずは、この事実と可能性が自分の関心をそそる。そこから、まだわれわれが知らない世界のありようが垣間見えるような気がする。これは神学ではなく、純粋に社会学的な問題として取りあつかえるし、またそのように取りあつかわれるべきであろう。
 しかし、神の救いには代償が伴う。この世界を棄てて、あの世に行くことになって、ようやく神はお出ましになられるのである。以前は生前に救われる者もあったようであるが、近年では奇跡はめっきり少なくなった。これは神の怠慢というよりも、人間のせいであるというべきだろう。人間は自らを救う術に長けてきたのであって、神の超自然的な介入に頼らざるをえない人間の数は減ってきたのだ。しかしそうなると、以前からいささか曖昧であった生と死との関係は、いまや完全に逆転せざるをえない。神が司るのは生の領域ではない。トルストイが『イワン・イリッチの死』で示したように、死こそが神と我々との最初の出会いの場である。生は娼婦、浮気な恋人、よくても不貞な妻であり、背徳により必ずわれわれを裏切らずにはいない。そうなると、われわれは死を忌避すべきでなく、喜んで迎えるべきなのである。
 これは明らかに生命至上主義を信奉する我々の価値観や道徳感情を逆なでする顚倒である。だが、悪魔は裏切り者の娼婦の魅力について語ることをやめない。この世における快楽こそが存在の理由である、と彼は繰り返し強調する。その代償は死後に支払われるが、それが一体何だというのだ。人生は一度きりしかない。そんなことをあれこれ思い悩んで、人生の楽しみに冷や水をかけるのは阿呆のすることさ、と。つまり、神が死を受け入れやすくする代償に生を棄てることを要求するのに対して、悪魔は生を楽しむ代償として死に関する幻想を棄てるように促すのである。人を死へと誘惑する神と、生へと誘惑する悪魔というのは、われわれには素っ頓狂な価値顚倒のように思われる。このブラインド・ウィリー・ジョンソンの歌がわれわれの心に何か不安をかきたてるのはそのせいであろう。
 いずれにしても、ここにある逆説があることは否めない、ということを感じていただけただろうか。逆説というのが大仰であれば、そこになにかやましげに身を隠すいかがわしいものがあるということを。このいかがわしい何かに気づいてもらうために、ここでちょっと先走りを許してもらおう。自分は悪魔に魂を売った者である。自分はまさにこの罪によって世界から見捨てられ、一人で孤独に死んでいく運命を背負わされたのである。いや、誤解しないでほしい。厳密にいうと、自分で契約書にサインをした覚えはないのであるから、悪魔に騙されたのだといってもよい(それがいかほど自分の罪を軽くするのかは不明であるが)。この敬虔な歌に関心を示したことが、悪魔との契約に等しいと見なされたのだ。この神による救いの歌は、同時に自分にとっては悪魔との間に交わされた契約書でもあった。
 この証拠物件を差し押さえられた自分は、生を享受する権利を奪われ、世界から追放される憂き目をみた。自分は越えてはならない一線を知らずに踏みこえて、自分の罪深さを証明したのである。自分にはそうは見えなかったのであるが、このジーザスが悪魔の化身であることに疑いの余地は少なかったようだ。かれらは、直感的にあの歌詞の「ジーザス」を「悪魔」と読みかえて、何の疑いも抱かなかった。神にたいする敬虔の覆いをとり除けば、それは悪魔への降伏にほかならないと考えたのである。それほどまでに、かれらは悪魔の存在を身近に感じていた。いや、あるいはかれらが正しかったのかもしれない。あそこには確かに悪魔がいたのである。
 しかし、しかしである。今癒しがたく病み傷ついて、自分はこの同じ歌に心を動かされている。結局、悪魔との契約によってもたらされた社会的な死の負債は、神の慈愛としての生物学的な死によってなんとか帳尻を合わせられるのである。この神と悪魔の絶妙なビジネス・パートナーシップ!そして、今度は世間はこの歌に耳を貸す者を見とがめることはしないであろう。悪魔に魂を売った者こそが、真に神の救済を必要とする。世間は無意識のうちに、生を享受する者にとっての悪魔は、死ぬ行く者にとっては神であるという新たな神学を受け入れているように思える。この神の二義性、神と悪魔の同一性、神がその慈愛の受益者の必要に応じて悪魔の姿をとりうると解されていること、これがいかがわしさを生む土壌ではないだろうか。死を大っぴらに笑い飛ばすことのできた時代は、こうしたいかがわしさとは無縁だったのではないか。
 つたない言葉で自分の言い分を理解してもらおうとするあまり、自分は今口にすべきでないようなことを書いたかもしれない。そもそも、この考えを終りまで考えとおす勇気を自分はもっているのだろうか。そうでないならば、ここで口をつぐむべきであろう。うまい具合に、ここまで書いて、また頭のなかに靄がかかってきた。自分の精神は死滅しつつあり、一日のうちでまともに思考できる時間は限られている。残りの時間は、太古の海に漂うクラゲみたいに、触手を伸び縮みさせている。この世界に対する愛着と、それを失う悲しみと、それが避けられないという諦念。それが精神を持つ以前の、神も悪魔もない世界における生命の始源的なあり方ではないかとも考えられる。死はあらゆる罪障を消し去るという意味で、解放的な暴力であり、神的なものと悪魔的なものがほどよくブレンドされている。いや、そんなことは今はどうでもよい。そういう状態であるから、この逆説について終りまで考えるという仕事は、自分にはちと荷が重い。申しわけないが、それは、この手記を読むみなさんの手に委ねることにしたい。自分に残された時間は少ない。自分が完全にクラゲになってしまう前に、果して物語を終えることができるかどうかは、神(か悪魔)のみぞ知る。少なくとも、ここに自分は、自分の恥をさらけ出してでも、興味ある材料を一つ提供することによって、罪の贖いに手を貸したいと思う。私自身の罪と、諸君の罪の贖いに。
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