mixiユーザー(id:65552144)

2018年08月03日23:15

136 view

死ぬか生きるか、広島駅での事件

松本清張の「張り込み」という映画をYouTubeでみている。
まだ途中。
いや見始めたばかり。
1958年の映画、白黒。
横浜駅から男たちが汽車に乗る場面から始まり、その汽車が石炭で走る汽車なのがまず懐かしかった。
鹿児島行きの急行。
汽車は混んでいて通路に立つ人座る人、これも懐かしい。
会話の中にどこそこどこそこと通過する駅の名前が出てきた。
その一つに今は存在しない懐かしい駅の名があった。
「三田尻」
小学5年から中学、高校と過ごした街だ。
瀬戸内海に面し、天神様もある町だった。
昔は塩田があり塩の生産で知られていたそうな。

ここである事件を思い出した。
「三田尻」と呼ばれていた頃は私はまだ山奥の小さな村に祖父母と住んでいた。
その村にダム建設の計画が持ち上がった。
すると祖父はその建設のために集まってくる人々のための呉服屋を始めた。
たび、さらし布、浴衣、軍手、帯等々。
それらの品物は広島市の問屋で入手。
そのために祖母は時々広島の問屋に出かけていった。
バスで三田尻まで、三田尻からは汽車で広島に。
祖母はたまに私も連れていってくれた。
どこかに行くと言うのは当時の子供にとっては外国に行くほどの冒険に近いほどだった。
ラジオだけだった当時、汽車がまず非日常的、その窓に流れる風景、街の家並み、人々とその格好、全てが珍しい。
中でも駅ごとで売っているアイスクリーム!
肩から下げた箱にアイスクリームが並んでいて、ホームを素早く歩きながら売っている。
その声は「アイスクリー、アイスクリー、アイスクリーは如何ですかー」
と呼びかけていた。
祖母が買ってくれたそのアイスクリームは、折り箱を小さくしたような木の箱に入っていて、小さな木のスプーンがついていた。
そのアイスクリームは山奥で育った私には、なんとも言えないほど美味しく感じた。

さて事件の話だが、あれはきっと初めて広島に連れていってもらった時のことだと思う。
でなければあれほどの不安と恐怖にとりつかれなかったと思う。

その日、広島市の問屋で買い付けを終わると祖母と私は、どこかで食事をしてのち広島駅に着いた。
駅のホームに入るとベンチに私を座らせるとそばに数個の荷物を置き
「ちょっとね、行ってくるから絶対ここから離れちゃいけんよ。」
と祖母は言った。
どこに何しに、どのくらいと言う説明はなかった。
「ええかね、絶対戻ってくるまで離れちゃいけんよ。」
と祖母は念を押した。
私は頷き言われた通りベンチから動かず、じっと待った。
しばらくすると汽車が入ってきて、人々が降り人々が乗りして汽車は発車。
ホームを行ききする人々を眺め汽車を眺めしているうちに、やがて心配になってきた。
もしかしたらこれが自分たちの乗るべき汽車ではないかと。
乗り遅れたらどうしよう。
なぜ祖母は戻ってこないのだろう。
帰れなくなるのではないだろうか。
祖母はなぜ戻ってこないのだろう。
しばらく不安に耐えながら祖母をまった。
でも祖母は現れない。
どうしよう。
私一人でこの荷物を持って汽車に乗るべきだろうか?
でもどの汽車かわからない。
どうしよう。
家に帰れなかったらどうしよう。
汽車が入って去っていくごとに不安は膨らんだ。
不安がやがて恐怖になった。
そして私は泣き始めた。
人々は忙しそうに通り過ぎていく。
だんだん声をあげて泣き始めた。
もうこの世の終わりみたいな恐怖に駆られていた。
やっと駅員が来てくれた。「どうしたんかね」と男性の駅員。
私は少しホッとし、しゃくりあげながら説明。
駅員はどうしたものかと判断に迷っている様子。
そこに祖母が小走りに戻って来た。
祖母はなんでこれくらいのことで泣くのかと怒った。
私にとっては生きるか死ぬかの大事件、だが祖母にとってはこれくらいのことだったのだ。

まだテレビもない頃、山奥で育った私にはこんな場合、どうすべきかの知識も知恵もなかったってこと。
小学2年か3年くらいだったろうか。

後にわかったことだが、あの時祖母はパチンコを楽しみに行っていたらしい。
ええーっ!









7 12

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する