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2018年06月08日11:35

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実録小説・シマハタの光と陰・第2章・1959年慶応病院にて

 慶応病院には同様の子を持つ母親がたくさん来ていた。気が合う母親同士は会話をして、励まし合っていた。


  「私の娘は、いつも夜泣きをするの」

  「ウチの息子は夜泣きはしないけれど、よく下痢をして大変なの」。

  「私の子供は、高熱を出しやすいの」

  脳性まひの他にも、ポリオ後遺症やダウン症、水頭症などの障害を持つ子供を連れた母親が多く集まっていた。皆、我が子に「何とか生きて欲しい。育ち、少しでも元気になって欲しい」と祈る気持ちを持ち、心を支え合った。但し、そのほとんどはまともな理科教育も受けておらず、悩みは海のように深かった。多くの母親たちの悩みも林田博士は聞いていたのである。

 

  さて、我が家の会話である。

  母は父に

  「神奈川県の大船から来ている親子もいるの。谷口さんという親子だけど。母親は晴子。息子の名前は英世。やはり、起き上がれず、いつも体がピクピク動くらしいの。」。

  「大船?  遠くからよく来ているものだ。きっと、我が子を少しでも助けたい気持ちなんだね。...」

  私の母と、晴子は病院で時々会って話をしたが、やがて谷口親子は来なくなった。

  父は

  「やはり、遠いから来なくなったのだろう。どうしているだろうか」と答えた。

  

  林田先生は、脳性まひの特効薬として、水薬を与えた。でも、それを飲むと私は必ず激しい下痢をした。それで慶応病院から次第に遠ざかり、マッサージ師に来てもらったり、別な医者を探した。板橋区にある国立整肢療護園という、身障児の幼稚園みたいな所に勤務している、脳性まひに詳しい五津先生である。父が林田先生の水薬の事を話すと、五津先生は

  「それはおかしい。脳性まひに効く薬なんてないんだよ。お子さんは下痢をされたそうだ。ならば、それはお子さんの体質に合わない証拠。そのような薬は止めなさい。脳性まひの体は、マッサージと機能訓練しか良くなる方法はないのです」と話された。

  

1961年の春から夏にかけて、母と私は整肢療護園に泊まり込みで入園し、マッサージや立ち上がり訓練をする傍ら、お遊戯を皆でして、社会性を身に着けていった。その間、皇太子殿下(後の平成天皇)と美智子妃や、坂本九が整肢療護園を訪問した。さらに、五津先生は肢体不自由児の都立・光明養護学校の校医もされており、その関係で父母もそこを知り、翌年私はそこに入学。大船の谷口親子と再会した。私は林田博士とはしばらくは遠ざかるわけてある。

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