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2018年04月11日09:05

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人生意気に感ず「田中霊祠、天皇直訴と若者たち。心を失った現代の若者」

◇このところ田中正造にのめり込み、寸暇を見つけて栃木の関係遺跡に飛んでいる。今月の「ふるさと塾」(28日)も、第2回目の田中正造を取り上げる。群馬にも極めて関係が深く、また何よりもこの人物が投げかけるものが今日の社会に深く結びつくことに気付かなかったことに私は反省して恥じている。今、胸のうちの炎が高まる状況で、このブログを通し田中正造を読者にも伝えたい。
◇4月6日、渡良瀬川河畔の「田中霊祠」を詣でた。季節外れの寒い風にほこりが舞う中、木立に囲まれて神社と石碑が建っていた。
 この日の目当ては黒澤西蔵である。見上げるような大きな石碑に田中の生まれから始まる生涯の歩みが刻まれている。上部には大きな文字で「田中霊祠拝殿造営之碑」と題字が書かれ、左下に題字門人黒澤酉蔵とある。私が注目するのは、この「門人」という表現である。ここに黒澤が心酔した田中との師弟の関係が見てとれるからである。
 明治34年に決行した天皇直訴は日本中を震撼させた。新聞は号外を出した。そして全紙面をさいて直訴文を紹介し、人々は争って読んだ。特に若い人々に新鮮な衝撃を与えたようである。
 その中に石川啄木や田中霊祠に名を刻む黒澤酉蔵がいた。酉蔵は中学生(旧制)であったが号外を読んで直ちに正造に面会を求めた。火の中に飛び込むような一途な少年の姿が目に浮かぶ。酉蔵はその後、17歳から20歳に至るまで、谷中村鉱毒問題に命がけで取り組む。号外を機に学生視察団が結成される。その数は千人を超えるほどで、その先頭に立ったには内村鑑三だった。酉蔵は、田中に勧められてこの視察団に加わった。中学生は少数であったらしい。
 上野駅から特別列車で参加した学生は車内で「鉱毒地を訪ふの歌」を歌った。その光景を想像すると、今日の若者にはない社会正義に燃え、大きな不正に怒る若者の熱気が伝わってくる。私には健全な学生運動の原点のように思える。
 黒澤酉蔵は視察団に加わり現地を見て田中の真情、絶叫、献身の意味を心の底から理解できたと語る。そして、その目で見た鉱毒地の惨状はとうてい筆舌をもって言い表すことができるような生やさしい状況ではないと怒りを吐露する。今日の若者がこのような心を失っていることは正に日本の危機である。(読者に感謝)

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