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2018年04月04日08:20

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創造的循環による自己制作

喧嘩している時に興奮状態になっていて我に返るモードでなくなっている間は意識が途切れていて記憶がない、ということから分かるように、意識とは心が心自身に言及することで、記憶がなければ意識がないのは、脊髄反射的に怒りという反応によって他者に対応するのみで頭脳という過去の記憶の倉庫にまで情報が送信されなければ、現に在る現在と過ぎ去った現在が言及し合えないためである。

生命の本質は自己の存亡が気掛かりであるという知性の自己言及構造であると哲学者ハイデガーは言ったのだけど、生物と違って無生物が自己言及し得ないのは、頭脳が脊髄反射の体系の複雑化したものであるのに対して、脊髄反射よりももっと単純な反射が無生物における作用に対応する反作用であるからで、喧嘩しても仲直りしたら元通り以上になる我々人間のような生物と違って、無生物は創造的循環を可能にする他者の内面化をなし得ないために学習できなくて作用に対応する反作用は同じことの繰り返しに留まる、という意味で、発展性や歴史性を欠いている、ということだ。

内面化された他者とは本能を抑える理性のことを言うのだけど、人間は個体としての本能的欲求と環境が突き付けてくる要求との葛藤を内面化する理性的動物で、生来は一つだった自己が本能と理性という二つに分裂して言及し合うからこそ人間は成長できるわけだ。

哲学者カントは、理性とは時空という認識の形式であると言った。

時間とは全てが一挙に与えられることを妨げるものであると哲学者ベルクソンが言った通りで、時間の本質は出し惜しみしながら一つ一つ小出しにしていくところにこそあるのだけど、自他を共存させている空間において、なぜ無数の他者たちのうちの或る特定の一つだけが自己なのか、という問いは、なぜ無限の時点たちのうちの或る特定の一つだけが現時点なのかという時間についての問いと、同構造である、ということから分かるように、空間の本質も時間の本質と同じで、ちょうど、現時点が現れている間は現れていることによってその他の全ての時点たちが覆い隠されて消えているけれど、現時点が現れ終えたら他の時点が現時点になる、というのと同じように、自己が現象している間は他者は現象しないにせよ、自己が現象し終えたら意識下に沈んでいた他者が意識上に浮かんできて自己として現象し始める、というふうに、自分は死んだら他人に生まれ変わる。

このように、時空とは全体を部分部分に小分けにして一つづつ現象させていく現象の形式で、形式という排他原理に従う限りでの我々は自他を一挙に生きることはできないにせよ、意識乃至認識の形式によって捉えられる以前の内容そのものにおいては自他未分である、というふうに、自分は自分以外の全ての者を内包している。

「神は細部に宿る」という言葉は、如何なる小部分の内にも全体の情報が入っているという無限の入れ子構造のことを指し示して言っていて、他者を内面化して自己の一部分としてこそ、テレビカメラでテレビモニター自身を映した時のように、部分が全体の縮図となる、有限から無限へという飛躍が、可能ならしめられる、ということは、我々生物は、他者との相克を通じて、これが自分の能力の限界だと思っていた自分で作った壁を努力によって飛び越えることができる、ということなのではないか。

もしも、無生物においては潜在能力の段階だった心という自由意志が生物に至って初めて顕在化したのだとすれば、今から起きる事は今まで起きた事のみに起因するのでなく原因なしに事を起こす能力があることになる。

そうだとすれば、外部の他者からの働き掛けを受けなければ自ら動き出すことはない無生物と違って、生物には内発性乃至自発性があることになる。
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