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2017年08月08日23:17

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絵描きの親友の前世 5

その時英国人の彼が約4年間韓国と日本を行ったり来たり過ごしそろそろホームシックになり始めた頃だった。
私は彼について行こうと思った。
祖母が残してくれたお金が少しあった。
それを使うことにした。
そして旅立った。
不思議なことに私は恋愛感情は抱いていなかった。
ただただお見合いし女の幸せを得る人生から逃げたかっただけだった。
それなら自立することを考えれば良いのに、あの当時なぜかそのようには考えたこともなかった。
ぼんやりなのだな。
その癖一生の保障のために見合結婚するのは体を売るのと同じだとそこが許せなかった。
きっと前世の側室だった私がそう感じたのかもしれない。
絵描きの親友と数人が横浜港まで見送りに来てくれた。

約一年半後、絵描きの親友と妹さんも渡英。

私たちはこの時期もまだ学生気分の感覚で生きていた。
なのでお互いに関しても日本からの続きの気分で生きていたと思う。
親友はオペア(手伝い)をしたりジャパンクラブでアルバイトしながら頑張りやがて美大に入り、本当は絵をやりたいのだが生活を成り立たせやすい陶芸を選んだ。
私たちは会える時は会ったが、しばらく会えないと手紙でやりとりした。
親友の挿絵付きの手紙は文章も絵も素晴らしく、それらは主婦業の私には最高の刺激だったものだ。

やがて少しずつだが何かがずれていく。
それは多分主婦の私とまだ独身の彼女の人生観のズレだったのだろうと思う。
妹さんは何年か後に帰国。
美大を卒業した親友は有名な陶芸家の元でアシスタントとして暮らし、やがて知りあった青年と結婚。
その頃には私は二児の母だった。

数年後親友も二児の母となった。
彼女には男の子二人、私には女の子二人だった。
私たちは両方とも貧乏生活だったので、ロンドンとウエールズと離れていたせいもあり、あまり会えなくなった。
けど連絡は絶やさなかった。

私の結婚はうまくいっていなかった。
多分自由気ままに生きたかった夫には荷が重すぎたのだろう。
やがて別居した。
私は当時たまにだが美容の通訳をするようになっていた。
いよいよ私が子供たちを養わなければと緊張と不安にかられながらも同時に不思議な開放感に包まれたのも事実。
他にできる仕事もない私はたまの通訳を頑張るしかない。
これまで親友に引っ張られるようにして生きて来た私が、やがて少しだけ親友の助けになれるようになるとは夢想だにしなかったのだが。




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