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2017年07月21日22:54

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7月21日、そういえば昨日が俺にとっての「魔の記念日」だった。



梅雨明けした7月。

今日の朝起きてパソコンを開いたらニュースが目に入ってきて、

それによると

リンキン・パークというラップ・ロック・バンドの、ラップじゃないほうの

ヴォーカル担当のチェスター・ヴェニントンという人が亡くなったそうだ。

自殺と報じられている、と。

リンキン・パークは特に気に入ってたワケじゃないけどこのチェスターというヒトの声と

歌い方と顔は、けっこうカッコイイな、と思っていた。

メガ・ロック・スターの自殺。

ニルヴァーナのカートの時のことを思い出さずには居られないのだが、それはともかく。

・・・何故 自殺なんかしたのだろう?という素朴な疑問にはきっと、答えが無いままなのであろう。

どんな自殺も、ものすごく個人的な行為だから(その実、とても社会的な行為でもある)、

最終的にはその当人にしか、真実はわからない。

たとえ、遺書があったとしても、巨額の借金があったことが判明したとしても、

重い病気を抱えていたことが判明したとしても、

学校とか職場で「いじめ」に遭っていたことが証言されたとしても、

彼(彼女)が死んだ「本当の理由」は、わかりはしないのだ。哀しいことに。

しかし・・・・・・・・・勿体無い。


話は少しだけ逸れるが、

中学生くらいだった頃、グレ出した、というか不良ぶって、悪行を始めた子供が親に対してよく言っていたのが

「(自分を)産んでくれって頼んだわけじゃねえ」・・・みたいなことだった。

・・・・・「好きで生まれてきたんじゃねえんだ」って言いたいのね。

こういうの、あちこちで耳にした(ような気がする)ので、

何か原典・・・というか「モト」があるのだろうと思う。

どうせテレビドラマか何かだろうけど。

(聖書?・・・・ってことはないだろう。)

(「マタイ伝ルカの書」だったりして。)

しかし、この種の物言いって・・・・・・・けっこう、考えさせられる。

いや、そうなんだよね、っていう面もある。人生ってけっこう「他動的」、というか。

結局のところ、何のために生きているか、というのは明確にはわからないし、

誰しも自分で自発的に、目標や希望を持たなければ・・・生きていくことは退屈だし、つらい。

でもさ、「産んでくれって頼んでない」って言うけどさアンタ、

自分がちっちゃな、一億分の一の「精子」だったときの事を覚えてないだけだよ。

精子には記憶する「脳」がないからさ。

必死に泳いでる精子の、あの映像(見たことあるよね?)を見たらさ、

泣いて頼んでるように見えるぜ。

だから、究極には、生きたくて生きてるのだ、誰もが。


でも・・・・「自殺する自由」があったっていいじゃないか、とアタマの中でもう一人の私が言う。

うーん、そうかな。

でもそういうのって・・・・・・

袋小路に追い詰められて、思考がおかしくなってしまった末のこと、なんじゃないかな。

あのさ、俺なんか

「生き延びるためなら何でもやる」ぜ。こーゆーのって、身も蓋もないけど、

ほとんどの人がそうだと思う。ヒトだけじゃなく、

それは生物の基本原理だ。

生き物は皆、まっすぐに「生」の方を向いて、とにかく「生きること」を希求している。

それでしかないし、

それでいい・・・・・のだと思う。


人生は他動的、というところに話を戻す。

「他動的」というのはつまり、

我々の人生は(自分ではない)誰か(・・・つまり「親」)に、与えられたものである

という側面がある、ということ。

ふむ。

それならば我々には「自殺する自由」は、ないかもしれない。

だって、人生自体が「もらいもの」なんだから。

もらったものを勝手に壊したり捨てたりするのって、良くない。それはどう考えても、良くないよ。

・・これって

ずっと前に増子兄いがラジオ出演したとき言ってたこと、

「もし自分のために生きられないなら、他人のために生きればいい」っていうのと

ちょっと近い・・・・・・・・ことないかな?

表裏は逆かもしれないし、

もしかしたら位置的にはパラレルかもしれないけど、

そんないハズれてないぜ、きっと。










ところで昨日が7月20日で、俺の「魔の記念日」だった。

24年前の昨日、俺は死の一歩手前まで行った(らしい)のだ、本人覚えてないけど。






想像するとちょっと怖い。













生きてて良かった、と少し思う。







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