「価値観の違い」。
この概念はとてもとても重要だったし、今でもそうだ。
中二の頃、ドイケンと僕はこのことに関して随分と長く長く話し合ったものだった。
ドイケンは、僕がギターを弾くようになって初めてできた「仲間」だ。
彼は僕の家に突然やって来て、窓から部屋に入った(笑)。ワイルドだ。
あれから30年以上経つが今でも我々の関係は全然変わらず、盆暮れに長く長く話し込む。
・・・話を戻す。
価値観、という概念があって、それはもう根幹の概念で、一人ひとりがそういうのを抱えて生きていて、
しかも、その中身は全然(天と地ほども)違うのだ。
これはよく考えれば考えるほど物凄いことで、
世界中のほとんどの問題、訴訟、軋轢、争い、衝突 の根っこはこれである・・のではないか。と僕は思う。
小さな諍いから巨大な紛争まで、みんなみんな「これ」のために起こっている。
他人の価値観を認めて、お互いに尊重しあって生きればいいのだ。なんて、口で言うのはとても簡単。
この僕にしたって、許せない他人、というのは・・いる。
彼らの偏狭な価値観を尊重などしない(してたまるか)。向こうだってそうだろう。
でも、
みんながみんな「価値観の違い」を抱えて生きているのだ、ということについて考えるのは無益ではない。
うまくいけば、他人を全否定する事の虚しさに気付ける・・・こともある。
全否定したくなるような他人は、「気にしない」に限る。
お互いが気にせずに、うまく距離をとって生きられれば、諍いは回避できる。
巨大な紛争も、この原理で避けられればいいのだけれど。でもそうそう、うまくいくことばかりではない。
価値観は、ひとりひとり違う。それは、「生き方」がひとりひとり違う、ということでもあるよね。
しかし何故、今になってまた、この概念がまた頭から離れないのか。
自分でもわからないのだが、
14歳のとき(それは中二だ)に聴いていた(好きになった)音楽がその後の音楽的嗜好を決定付ける・・・・・・・・・・・
というようなことをトモダチが以前に、言っていた。そのことを、このブログでも書いたはず。
「中二病」とはよく言ったものだし、案外・・・真実を突いている部分もあるのかもしれない。
それで、同じように中二のときに発見した(と本人達は思っている)概念、というものは
その後の人生においてもずっとずっと大事な、「テーマ」的なものに成り得る・・のかも知れない。
本当に、このことに気付いたときは重要な事実を発見した・・・ように思ったものだった。(今でも思ってるけどさ。)
我々(僕とドイケン)の前には気の遠くなるほど広大な世界と、センスの無い(通じない)人々と、
理解不能な難問が山のように積まれていた。
そんな「世界」を読み解く鍵、のように思ったんだ、この「価値観の違い」という概念が。
読み解いて、乗り越えてゆくための。
あれから30年以上経って、でも難問はまだまだ山積みだ。
だが、「鍵」は、間違ってなかった・・・んじゃないか?と思う。
そう願いたい。
追伸:ドイケンへ。
昨日のピーターさんのラジオは「戦前ブルーズ特集」だったね。
・・・・渋かったな。
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