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2017年02月27日22:31

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永劫回帰上等

朝から晩まで平日働いてせめて土日くらいは部屋でゴロゴロしていたいのに疲れた体に鞭打って妻子を外に遊びに連れて行って、自分は体がしんどくて遊びを楽しむどころでない状態でも家族サービスを頑張る、ということの繰り返しこそ、妻子持ちの男の日常なのだとしても、死ぬ思いで一日働いて、くたくたになって帰宅して、もし今日もほんの少しの時間でも一家団欒の時に家族と笑い合えたならば、ずっと談笑していることを時間が許さなくて名残り惜しくても、そんなささやかな幸せを糧にして、気持ちを切り替えて、明日も仕事を頑張れるのだと思う。

それに、感じていることについて考えたがる内省傾向への埋没を阻止してくれる外部の他者がいなければ鬱傾向から抜け出せないというおのれの弱さを乗り越えて強く生きていくために、独身者が結婚に幻想を抱いて敢えて自ら蟻地獄に引きずり込まれに行くことを、決して愚行とは言えないだろう。

誰だって、今まで必死で生きてきて頑張りすぎて燃え尽きた状態を引きずったままで、鬱に陥ってその場でうずくまってしまいたいのをこらえて、自らを鼓舞して、なおも頑張って行動しているのだと思う。

どうしてもやりたくないやるべきことを目の前にして行動を中断して布団にくるまってしまっている鬱の時と、躁転して鬱の時に頑張れなかった分を取り返すべく無茶苦茶に頑張っている時を、僕も学生時代は繰り返してきた。

頑張りすぎるばかりに反動で鬱が酷いものになる、というふうに、無茶苦茶な頑張りと腑抜けとの間を行ったり来たりしているうちに、だんだん現実感覚が身に付いてきて、頑張りを長続きさせるために程々に頑張る、ということを、人は覚えてゆくのだろう。

そこに夢なんかない。

あるのは、いつも改めて魂に火を付けて、我慢強く地道にコツコツと続けることだけだ。

千代に八千代に繰り返される現実の世界の中に幸せを打ち立てるのに必要なのは、もう限界だと思った時からのあともう一踏ん張りだと思う。

それを可能ならしめるためには、うんざりするような同じことの繰り返しであるかのように見えてそれはアングル変えて見たら螺旋的な上昇運動であるという人生への見方も大切だと思う。
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