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2017年02月09日07:44

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生存の意義に関する一考察

僕は大学で西洋哲学を専攻したからキリスト教も学んできたんだけど、宗教は人生に希望を持たせるためにあるはずなのに、キリスト教の諸派を勉強してもどれも結末に救いがある話には僕には聞こえなかった。

正しい行いをして生きてきた人は死ねば天国に帰れるんだよ、と言われるけど、帰るということは元々天国にいたということで、楽園追放されてこの世にやってきたということを意味するわけで、人間が神の理性の派出所であるとすれば、この世に人間として派遣されてきて、この世のありとあらゆる悪と悲惨の存在を自分の責任と感じて一人で抱え込んで貧しい人々を一人残らず救うまで気が済まなかったマザーテレサみたいに、教えに従って善い行いをすることに人生を捧げて、寿命が尽きてあの世に帰還しても、歴史は繰り返す、と言われる通り、あの世に常住できるわけでなく、再びこの世に送り出される、ということを、繰り返す、永劫回帰の円環の中に、一切万有はある。

つまり、苦行の末に高い段階に至っても低きに流れる傾向を克服できるわけでなく、油断して気を抜けば退転して、あの世という高い境地からこの世という低い境地へ堕落する、という必然性も含めたすべてを、自己責任として、引き受けさせられる、という意味で、キリスト教を信じる者は、自力の仏教を信じる者と、同じなのだ。

楽になれることはないと悟って、一念発起して、不退転の決意をしたつもりになって、苦しい努力の継続を開始しても、必ず、楽したいという怠け心に負けて、退転する、という自力の本性を、自覚した上で、そういう者をこそ助けさせて下さいと願った、阿弥陀仏の他力本願に、縋るのでなければ、魂は浮かばれない、と説く、浄土教にしか、救いはないように、僕には思える。

救いなんてどこにもないと諦めていても持ち前の生命力で強く生きてしまう者は持ち前の生命力で強く生きてしまえばもちろんそれでいいんだけど、少なくとも僕は信仰を原動力としなければ頑張れない弱者だ。

信じる力すらもないくらいに弱い僕だけど、無能無力な自己を無能無力な自己と直視し得る謙虚さを持ち合わせていないために信じる心すらもない者と見抜いて、そういう者のために阿弥陀仏のほうで「南無」という信心をこしらえて、それを、信じる対象である「阿弥陀仏」と抱き合わせにした不可分一体のセットである「南無阿弥陀仏」として、与えてくれる、という教えにおいて、人生の目的は、阿弥陀仏から他力の信心をもらうことである。

自力の修行だけで至らなさを思い知らされることはできない。

心の暗い闇は阿弥陀仏の光明によって照らし出されなければ打破できない。

浄土教は、この世を穢土にする行いしかできない自分のことを心が黒いことに喩えて、そういう自分をそういう自分として非を認めることができないことを心が暗いことに喩える。

心が黒いばかりでなくしかもなおかつ暗いために黒いと分からなくて黒くないかのように思い上がって自惚れているのだ。

暗ければ、白だろうと黒だろうと、それとも、赤なのか青なのか黄なのか、色は分からない。

阿弥陀仏から信心をもらうということは暗闇を明るみのもとに照らし出してもらうということで、黒を黒と認識できるということだ。

つまり、地獄行き間違いなしの自分であると明らかになると同時にそういう自分がそういう自分のままで死ねば極楽浄土へ行けるという確約をもらうことが阿弥陀仏から信心をもらうことなのだ。

ちょうど小学校の遠足の前夜みたいに楽しいことが待ち受けているときに心が浮き浮きするのと同じで、未来が明るければ現在も明るい、という意味で、信心をもらった瞬間から苦しい人生が苦しいことに変わりないままで明るく楽しいものになる。

一筋の光も差さない闇が破れて一点の曇りもなく晴れ渡る、そういう劇的な瞬間が訪れる体験を、生きている間にしなければ、死ねば必ず地獄行きですよ、と浄土教は教えているのだ。

キリスト教では失楽園が何度でもあるのに対して、一度得た信心は二度と失うことはありえない、というふうに、未来永劫に亘る救済がもたらされることを説く宗教が浄土教である。
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