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2016年03月30日17:45

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躓きの石

もし物たちが自己組織化した結果としてそこに心が生じてきたとするなら、心は物で出来た世界の事態の推移に何の影響力も行使できないことになる。

ちょうど、本体が動けば影が動かされるという因果順は可能でも逆に影が本体を動かすということはありえない、ということと同じである。

ところが、実際は、心という意志が身体という物体を動かす動因になっているので、学校に遅刻しないように足を動かして走ったり、授業中に手を動かして挙手したり、できる。

だから、物たちが自己組織化する以前である最初からすべての物に心という意志があって、心という意志がすべての物を動かす原動力になっている、と、ニュートン以前のヨーロッパの人々は、考えていた。

つまり、物は内発的動機で動いている、と、考えていたのだけど、近代物理学の完成者であるニュートンは、物は外部との力のやりとりがない限りは運動状態を変えない、と説明した。

高校物理で一番最初に習ったニュートンの運動の法則である。

ニュートンの運動の法則によって、混乱していて雑然としていた頭の中を整理できた、近代ヨーロッパの人々は、ニュートンの理解の仕方に納得して、物は外部との力のやりとりがなければ運動状態を変えないから内発的動機で動いているわけではない、と信じるようになった。

このように、いったん理解できてしまえば、つまり、理解の形式が成立してしまえば、内容をそのような形式でしか理解できなくなって、理解の形式が成立する以前の初心を忘れ去ってしまう。

つまり、初心を忘れ去っていくことによって見失われていくものがあるわけだけど、初心を忘れ去らないところに、ニュートンの天才たる所以はあって、物は愛という引力によって集合して憎しみという斥力によって離散する、というふうに、愛憎という心理的動機を物の離合集散の説明原理とした、ニュートンによれば、物は内発的動機で動いているままが外部との力のやりとりなしには運動状態を変えないことになる、というふうに、ニュートン以後の物理学はニュートン以前と両立するのだ。

言い換えれば、万有は心という自由意志で動いているままが物理学の法則的必然に従っていることになる、というふうに、自由と必然は両立するのだ。

物理学は、いつでもどこでも成り立つ一法則があるという自然の斉一性の原理に基づいていて、複雑で多様な現象の背後にある単純な一秩序を見出す営みなのだけど、いったん単純化して捉える一形式が成立してしまえば、内容をそのような一形式でしか捉えられなくなってしまう。

複雑で多様な現象に目を奪われていたときに見えていた現実が見失われてしまう。

見えているようで見えていないのだ。

二大天才物理学者としてニュートンと並び称されるアインシュタインは、数学のセンスがなく、教授でありながら数学科の学部生たちにすら馬鹿にされるほどだったのだけど、数学という形式に囚われないからこそ、永遠の初心者だからこそ、誰も気付けないことに気付けた、というふうに、頭が悪い人にしか見えない現実がある。

頭が悪い人は、理解の形式の成立が遅々として進まないから、頭のいい人たちから馬鹿にされるけど、誰しもがそこはすっ飛ばして考えるという問題にいちいち躓いていつまでも愚図愚図考えるからこそ、どんなに時間が掛かっても達する前人未到の世界がある。

アインシュタインは言葉を喋り始めるのが遅くて、知恵遅れではないかと親に心配されたほどだったのだけど、このようなエピソードは、言葉という形式に囚われなかったからこそ自由な発想ができた、ということを示している。

アインシュタインのような天才に限らず学者は、特に、独創的な研究をしている学者は、言葉の上っ面に囚われているように見えて、じつは言葉を踏まえた上でそれを乗り越える自己超克の運動の真っ最中なのだ。

確かに、学問は直感によって先取りされていた結論を論理で後付けるものだけど、直感よりも論理のほうが緻密なので、直感が先走るタイプよりも論理の積み重ねの上に直感が後から浮かんで来るタイプのほうが亀のように遅くても最終的に兎よりも遠くまで行ける。

学問は一番最後にゴールに辿り着いた者が勝ちであるようなゲームなのだ。
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