学校が再開した頃、地震から一か月後に、東灘区本山中町
と、長田区の御蔵菅原を案内した、全国朝日放送「朝まで
生テレビ」のプロデューサーの親友から電話がかかってき
ました。
「お前さんには、発信力があるから、テレビ出てくれ。避
難所となっている小学校のPTA会長という立場で話して
くれ」と言うのであります。
こういうことは、会社に許可を得てから出ないとあかんや
ろうなあ、と思い会社に行きました。
店長から一喝されました。
「こんな時に、お前は何を言いに来てるんや。神戸市民が
苦しんでいる時に、会社の許可とかそんなことはどうでも
いいやろ。出て思う存分、日本じゅうに吠えろ!」
地震の翌月、2月の最終金曜日から土曜日にかけて、「朝
まで生テレビ」に出ることになりました。
東京に行くのは無理なので、三宮のマンションに、特設ス
タジオ作って、そこで話すことになりました。
22時に来てくれと言うことで、三宮までは、JRの代行
バスに乗って行きました。
全被災者の気持ちを背中に背負って出かけました。
あんなに気持ちが高ぶった夜は、生まれて初めてでした。
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