いろいろあった2015年もそろそろ、終わりが近づいています。
個人的には、楽しいことばっかりだった気がするんだけど、そうでもないか?
(社会的には酷い出来事が沢山、あった。)
恐ろしいくらいのスピードで我々は「忘れながら」生きている。
忘れたくないことまで忘れる。(戦争法案の件は忘れない。)
忘れたいことは忘れられなかったり・・・することもある。
眠れない夜に心の中に飛来するのは「過去のこと」ばかり。
だからこそ、「夜中の3時の考え事」は、やめたほうがいいのだ。
内省的になってみたところで(そんな時間には)、行き場などないのだから。
さて、ほかのことは何もせず俺は(やれよな)、また本ばかり読んでいる。
来年がのっそりとやって来て、大型トラック乗務、そしてスタジオで音楽浸け・・・の日々がまた始まる前に
げっぷが出るほど本を読んでおく心積もりである。
考えてみたら
我が家にはいつもいつも、「音」がない。CDやレコードはそれなりの数があるが、
(ほんの稀に来客のあるとき以外は滅多に)かけない。聴かない。
「BGM」のようにして音楽をかける習慣が無いのだ。
(聴くときはヘッドフォンで大音量で、集中して聴く。)
他に音の出るもの・・・・テレヴィなど、もう何年も、そのスイッチにすら触っていない。
電源は入るのかもしれないが、完璧に無用の長物である。
ラジオは仕事でトラックに乗るときだけしか聴かない。
そうだ、
ウチには楽器はたくさんあるんだな、そういえば。それも時々、忘れる(嘘)。
部屋で本を読みながら聴こえているのは窓の外の通奏低音のような街の音と、
ファンヒーターのファンの音。
私は空気を吸うみたいにして本を読む。すうっ、はあっ。
それでね。
10年前に読んだ「ダ・ヴィンチ・コード」を古本屋で(安価でw)発見したので、暇にまかせて再読してみた。
前回よりも時間をかけて、丁寧に読んでみた。(前回は斜め読みしたのだ)。
・・・・・・面白く読めたが、ハリウッド映画みたい、という前回の印象と全く同じ読後感であった。
読後感っていうか・・読みながら間中、ずっとそう思っていた。
この本を原作に映画が作られて、映画も大ヒットしたんだよね。
映画のほうは見てないんだけど。あまり、映像作品って見ない(ようにしている)ので。
ハリウッド映画が嫌いなわけではないんだが・・・・。
扱ってる主題は深く、シリアスなのに作品自体は・・・浅くて、薄くて、御都合主義的な感じが拭えない。
(歴史的史実は実に興味深いけど。例えば「黄金比に関するあれこれ」とかね。)
同じハリウッド映画でも以前読んだ「12モンキーズ」のノヴェライズ小説は良かった。
ノヴェライズ(映画の小説化)なのに、深く、重く、心に残る小説作品であった。
こちらは映画のほうも見ていて、すっごく良かったんだけどさ。
「ダ・ヴィンチ・コード」は、一種の、推理小説仕立てになっていて
(一番犯人らしくない人物が犯人で、みたいな)、
そういうのってちょっと、軽いよね。まあいいんだけど。
でも、その前に読んだ、梨木香歩の小説は、すごかった。
「からくりからくさ」、そして「りかさん」。
「りかさん」という一冊の本には2編入っていて、表題の「りかさん」ともう1編、「ミケルの庭」。
心にずっしり来る小説。
「マジック・リアリズム」という言葉・・・というかジャンルみたいなもの、について
ちょっと真面目に考えさせられた。
最近、村上春樹さんの小説が海外で「マジック・リアリズム小説」と言われたりするらしい。
他には例えば、ガルシア=マルケスの小説とかが「マジック・リアリズム」と呼ばれる。
大雑把に言うと、
描かれているのは日常なのだが、その中でさりげなく超自然的な出来事が起こって・・・・みたいな。
(「百年の孤独」とか確かに、そんな感じかも。)
梨木香歩さんの以前からの小説の多くも、そういう構造になっていた。
今回読んだ「からくりからくさ」と「りかさん」と「ミケルの庭」は、繋がっていて、登場人物も重複する。
時系列で言うと「りかさん」「からくりからくさ」「ミケルの庭」という順。
でも描き方が全然違っていて、「りかさん」はマジック(ファンタジー?)寄り、
「からくりからくさ」はリアリズムとマジックの融合、
「ミケルの庭」はリアリズム(マジックなし)。
「マジック・リアリズム」という観点に対してとても自覚的に
「描き分けられた」小説群なのかも・・・・と思ったのだ。
でもこういうのって、その「本」読んでないと伝わらないんだよな。
ごめんごめん。
わかってるんだけど、
「感動」があったから、その話をしたかっただけだよ。
やっぱ、「読書」っていう行為は少し、
「内向的」な側面があるね。
来年はたくさんライヴやるからさ。
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