以前、或る板で、
平行線になっているやりとりを見かけた。
Aは自分自身のカラダと心から滲み出た、
身を切った主観的世界からの言葉を発している。
BはそのAの言葉に対し、持論を投げかけている。
それはどちらかと言うと一般論寄りの言葉で、
アドヴァイスのニュアンスまで含まれている・・・。
AとB、どちらの言葉が正しいか、という事では無いのだが、
二者の立っている位置があまりに異なっている印象を受ける。
BはAに向かってボールを投げているつもりだが、
Aのグローブはそれを受け取れないカタチをしている。
一球目はAのグローブに入らなかった。
Aはあらためて自分のグローブのカタチに関わる内容(自己状況説明)をコメントする。
Bはそのコメントを受けて、二球目を投じる選択をした。
しかし、一球目と同じボールをまた投げてしまっている。しかも力投、豪速球・・・。
そのやりとりが続く内、とうとうAはBから受ける苦痛を訴え、
其処にやんわりと仲裁っぽくCが登場した。
Bはあくまで自分の投げたいボールを投げて、
それをAに受け取らせたいという欲望を優先したピッチングだったのだろう。
しかしBの一般論的アドヴァイスのボールは、
主観的世界で形成されたAのグローブには収まらない。
つまり、会話が成立していない。
Aはどちらかというと、余裕の無い苦しい自己状況にあった。
自分のグローブをBのボールに合わせて作り替える事は出来ず、
そんな気遣いのエネルギーを削る意味も見出せない。
つまりAはBのボールを求めていない・・・。
そうなると、関わって来たBが、
このAと「本当のキャッチボール、会話をしたかったのか?」という事である。
もし会話をしたかったとしたら、
Aのグローブのカタチを、Aの言葉から感じ、想像し、
少なくともそのイメージされたグローブへおさまる初球を選択する、という事になる。
Aのグローブに同調したボールをまず投げる、という事である。
「Bの投げたAのグローブに同調したボール」をAのグローブが受け止めると、
響きが生じる。
此処でAは初めてBにボールを投げ返せる。
会話のキャッチボールが此処から始まる。
キャッチボールが始まれば、
そのやりとりの中で、
お互いのグローブは色々な響きを発し、
両者のあいだには新たな響きが生じ、
お互いに変化も生じて行く。
そして生じるものが共感であれ異なる見解であれ、
お互いの位置を丁寧に感じ取りながら投げ合える、
実のある会話のキャッチボールになる・・・・・・
・・・・・・上記の様な事を、或る板をきっかけに感じたのだが、
日常での自分自身及び周囲では果たしてどうだろう。
一見相手と向き合いながら会話をしている様で、
実はお互いの独り言を披露し合って疲労して終わる、
そんな「会話のつもり」に陥りがちにはなっていないだろうか。
相手を見ているけど見ていなくて、
言葉のボールを各自勝手に投げちらかし、
お互いのグローブが全く響きの音を立てないまま、時間だけが過ぎて行く・・・。
御立派な事を言うつもりではないが、
自分は出来るだけ、
響き合える初球を選択したい。
折角の他者との会話、その方が興味深いものとなり、
気付きや確認や発見に満ちた時間になるのではないか。
響きは、生じた方がいい。
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