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2015年11月08日21:13

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宗我坐宗我都比古神社

9時39分、宗我坐宗我都比古神社に到着。
境内は意外と明るい。

式内宗我坐宗我都比古神社は大同元年(八〇六)大和国内に神封三戸を寄せられ(新妙格勅符妙)、天安三年(八五九)一月二七日に従五位下より従五位上に昇叙、同六年六月十六日には正五位下となった。
当社の創祀について、「五群神社記」には推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀ったとある。
社伝によると、持統天皇が蘇我氏一門滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に祖神奉崇のため土地を賜い、社務と耕作を行わしたのに始まるという。
祭神二座は「五郡神社記」が武内宿禰・石川宿禰とし、元禄(一六八八−一七〇四)頃の社記が彦太忍信命・石河宿禰とするが、おそらく土着神の男神・女神を祀ったものと考えられている。

奈良県橿原市曽我町にある神社。
曽我川東岸に鎮座。
旧村社。
祭神は曽我都比古神・曽我都比売神と伝え、木造神像二体がある。
近世には入鹿宮と称し、「延喜式」神名帳高市郡の「宗我坐宗我都比古神社二座」に比定される。
式内宗我都比古神社は大同元年(806)大和国内に紳封三戸を寄せられ、天安三年(859)一月二十七日に従五位下より従五位上に昇叙、同六年六月十六日には正五位上となった。
当社の創祀について、「五郡神社記」には推古天皇の時に蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀ったとある。
社伝によると、持統天皇が蘇我氏一門滅亡をあわれんで、蘇我倉山田石川麻呂の次男徳永内供に紀氏を継がしめ、内供の子永末に租神奉崇のため土地を賜い、社務と耕作を行わしめたのに始まるという。
祭神二座は「五郡神社記」が武内宿禰・石川宿禰とし、元禄(1688-1704)頃の社記が彦太忍信命・石河宿禰とするが、おそらく土着紳の男神・女神を祀ったものと考えられている。
境内は中曾司遺跡の中心地で、付近には鳥居脇塚・ソガドン塚などの小古墳がある。

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