mixiユーザー(id:28578707)

2015年09月08日14:40

587 view

西行法師の旅

僕は松尾芭蕉が旅の手本とした、西行法師に興味を持っています。


西行法師は825年前の平安時代に活躍した、武士、僧侶、歌人として有名でした。

辞世の句に、『願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ』

願がかなうなら春、桜の下で死にたい。

釈迦が入滅したという2月15日の満月のころに。

翌日の2月16日に亡くなりました。


この日は僕の誕生日なのでこの句はいつまでも心に残っています。


平清盛、崇徳上皇、西行法師との運命の"三角関係の話をします。


小倉百人一首の中でも、もっとも有名な恋の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。これをよんだのが崇徳上皇です。 ロマンチックなこの歌とは裏腹に、崇徳上皇は天皇へのクーデターの罪で、香川県に流された悲運の人でした。

崇徳上皇は都に帰りたいと切望しながらもこの地で亡くなり、白峯御陵(坂出市)に葬られました。


保元の乱は、兄・崇徳と弟・後白河との権力の座を賭けた争いに、貴族の藤原、源氏、平家の武士たちが参戦した政治的パワーゲームでした。


崇徳上皇は、平清盛と同じ乳母に息子を預けたほど縁が深かっただけに、清盛の支援を待ち望んでいましたが、

清盛は後白河天皇に味方してしまいました。


この後、勝った後白河天皇は清盛とともに力を伸ばしてゆきますが、敗れた崇徳上皇は香川県に流されました。

これは上皇の身分では考えられないほど重い処分で、上皇は失意の中8年間をこの地で過ごし、都に一度も戻ることができずに亡くな
ります。


この崇徳上皇への後ろめたい思いが、のちに「怨霊」という形で、

後白河天皇と清盛を悩ませることになるのです。

やがて、後白河天皇の周辺の人々が相次いで亡くなった上に、政大臣になった清盛が、後白河上皇を幽閉するというクーデターが発生。
崇徳上皇の怨霊が清盛にとりつき、清盛に思い上がったふるまいをさせたあげく、平家を滅亡させたとまでいわれました。

西行と崇徳上皇は、宮中にいるときから歌の才能のあるもの同士、深い親交がありました。
西行がある高貴な女性との恋をうわさされたが、西行は失恋し、それが出家の原因になったとも言われます。


上皇の死から4年後、西行が荒れ狂う崇徳上皇の霊に対してなぐさめの歌をよんだという話は人々の心を打ち、長く謡曲などとして伝えられました。

また西行は、平清盛とも古くからの親交で結ばれていたことも知られています。ひとつの戦いを境に、運命が大きく分かれてしまった清盛と崇徳上皇。
その二人を見つめた西行の心中には、いったいどんな思いがあったのでしょうか。


崇徳上皇の死から4年後、西行ははるばる四国へと旅をしています。
当時ではすでに老人といえる51歳の西行がこのような長旅に出たのは、ほかならぬ崇徳上皇の慰霊のためでした。
江戸時代に書かれた小説「雨月物語」では、西行が白峯(坂出市)にある崇徳上皇の墓前で、髪を振り乱し、青白い炎の中で荒れ狂う上皇の怨霊と向かい合うという、迫力たっぷりの場面があります。
「よしや君 むかしの玉のゆかとても かからむ後は何にかはせむ」。
「現世では天子であったあなたも、死の世界では一切が平等であるはず。
過ぎ去ったことはすべてお忘れになり、静かに成仏なさいますように」という西行のメッセージに、上皇の霊は静まったと伝えています。
香川県は
弘法大師の故郷でもあります。

西行法師の庵もあちこちにあります。

『寂しさに
耐へたる人の

またもあれな

庵(いほり)並べむ

冬の山里』

この寂しさに耐えている人が私の他にもいて欲しい。そうしたらその人と一緒に庵を並べて住もうこの冬の山里で。

西行法師のしみじみとした人生観が伝わってくる句だと思いました。
長くなりましたすみません。

合掌






1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する