『努力の程度の比較・評価はそれほど容易ではありませんが、
さらに、当の個人のその努力は、はたしてどこまで自分のものなのか、
というもっと根本的な問題があります。
「全く独力で繁栄を築いたと考えている成功した実業家は、
商業の発達が可能にしてきた秩序ある平穏、道路や航路の安全、
熟練労働者大衆、文明が彼の意のままになしうるものとした叡智の総体、
全般的な世界の進歩が創出してきた彼らの生産物へのほかならぬ需要、
彼が当然のことのようにして使用し、
しかも数世代にわたる科学者と産業の組織者との集団的努力によって
築き上げられてきた諸発明品がなかったならば、
はたして成功へ達する道にただ一歩でも踏み出すことができたかどうかと、
思案してみないのである」
同様に、一人の個人の高い知的能力も、
やや大げさながらも人類の知的遺産の体系的な伝達機関といえる学校教育、
そして、こういう組織を可能にしている過去と現在の世代の労働と
社会的生産力、さらには、その個人の学業を成功裡に進捗させる親密圏
(家族など)の経済的・文化的環境などを前提することなしには
ありえなかった、ということもできましょう。
個人が達成した高い成果というのも、
けっして、もっぱら個人的な功績として、
努力や能力の程度に応じた成果の相違に基づく不平等な報酬とか
処遇の無媒介な許容を是とするようなものではありません。
ある個人があげた高い成果、そしてそれを実現させた
努力や能力といっても、それは実は
歴史的かつ同時代の無数の人々の共同的な能力やその発揮としての
共同の努力、そしてその結実や蓄積に基づくものであって、
これを措いて当の個人の成果というものもありえなかったでしょう』
連日スビバセン、長々と。
でも、単純なイデオロギー攻撃に対しては、有効な言説だと思うので、
敢えてアップしています。
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