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2014年06月22日19:18

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九條武子

 おちひさい麗玉の如き大谷武子姫は、いとも健やかに成長されました。峻麿(たかまろ)様は東京の學習院にゐられましたが、姉君の文子姫を初め、嶺麿様は七歳、惇麿様はお三つ、徳麿様はお二つ、お姉さまとお兄さまのお四人が、侍女にかしづかれ、お乳母に抱かれて、武子姫のお部屋へお遊びに見えます。この皆さまは、お乳母のおちゝでお育ちなのでした。
 美濃越前地方の御教化を滞りなく終わって歸邸されました父君の光尊師も、武子姫をご覧になりまして、この上もなくお悦びでした。
 『藤、おまへに良く似て美しい子だな。この子にも好い乳母があればいゝが』
 微笑してさう言はれる光尊師に、お藤の方は項(うな)だれて答へられました。
 『このお姫(ひい)さまは、わたくしのお乳でお育て申上げたいと存じてをりまする』
 『ほう、さうか。しかし、今まではそれは例のないことだな、どうしてだね?』
 『お子さまのお育ちには、わたくしのお乳が、何よりと伺つてをりますし・・・』
 『さう。しかし、お前には邸内の用事が、なかゝ多いのだから、その上になほ、この姫を自分で手がけることは、どうかな?』
 『はい、それは、わたくしさへ精を出しますれば、お邸内のことも、疎かにはなるまいと存じます。それに、お乳母となりますと、この上、なほのこと萬端のお費(つひ)えが、かさんでまゐりますから』
 

マイミク「ノンキー」さんの先日の日記に、雑誌『児童文芸』の特集にあった、戦前の少女小説が紹介されていた。
そこにあった物語のあらすじの一端は、確かに今チラと読んでみただけで充分に面白く、当時の読者たる少年少女たちが胸を高鳴らせて連載の続きを待ったことは、なるほど想像に難くないと思わせるものだった。
当時の人気作家の一人に、山中峯太郎という人がいたらしい。
そこに紹介されていた物語の原文が、もしかして今でも読めるのでは?という興味から、地元の区立図書館の所蔵を当たってみたが、目指す作品は残念ながら全集の中にも見当たらなかった。
残念。
しかし、所蔵作品の中に『九条武子夫人』という題名を見つけて、飛び上がりそうになった。
九條武子といえば、私がどうしようもなく惹かれている大谷探検隊のオーナー大谷光瑞、京都西本願寺の門主大谷鏡如の妹ではないか!

その場でリクエストして、数日のちに手元に届いた本は、え?と驚くしろものだった。
赤い布装丁に銀で箔押しした背表紙というのは、昭和刊行の本によくある種類だが、真っ茶色に焼けて開きやすくなった小口は、使い古した辞書のようだ。
写真のキャプションなど横書きの文字は右から左に向けて書かれ、本文はすべてルビつき。
書誌データに「出版社不明」とあったが、確かに奥付がなく、刊行年も書いていない。
序文が書かれたのは、昭和四年。
区が昭和50年に誰かから寄贈を受け、貸出カードのポケットがついていないところを見ると、そのまま保存庫へ直行した気配がある。
よって、もしかするとかれこれ40年、この本を借り出した人はいないのかもしれない。
(その後調べたところによると、この本は、昭和5年に大日本雄弁会講談社から刊行されたことがわかった。)


さっそく読み始めてみると、これは、柳原白蓮らと並んで大正三美人と謳われた九條武子の没後一年に、『婦人倶楽部』編集局が企画して山中峯太郎に執筆させた伝記物語であった。
西本願寺の法主、「御所様(ごつさま)」と呼ばれる門主大谷光尊の側室を生母に、光尊と北の御方に住まうそのお裏方(正室)を「おもうさま、おたあさま」と呼び、奥向の生母・藤の方のことは「ふぢ」と呼び捨てにするよう躾けられる、西本願寺の高く厚い扉の向こうで育つ、「お西のお姫(ひい)さん」。
わずか130年ほど前のことなのに、まるでおとぎ話のお姫様の物語を聞いているかのような感覚におちいる。
古いふるい因襲に従う本願寺ではあったが、開明的な父大谷光尊(明如)と、生母お藤の方の理知的な性質とあいまって、母を同じくする長兄光瑞(鏡如)と、後に自らも嫁ぐことになる九條家から入輿してきた義姉・九條籌子(かずこ)といった周辺の人々から愛され、武子は木登りや乗馬の得意な、男勝りの少女時代を過ごす。
中でも、門主を継ぐべく東京から戻ってきた兄・光瑞が、本願寺の中のいくつもの御殿を物理的にしきっていた厚い壁の大手門を、腹心と共につるはしで突き崩すのを、光瑞の許嫁・九條籌子と共に大喜びで見守る場面が印象に残る。
また、洋行帰りの光瑞が作らせて届けられたばかりのヨットに、光瑞・籌子夫妻と勇躍乗り込み、その足で淡路島へ、そしてそのまま日本書紀にも出てくるオノコロ島へと渡って本願寺の老人たちを慌てさせた事件、そして「園芸をやるなら、世界ぢうの植物を、標本的に集めたらどうだ」という光瑞が自ら設計した大温室で、ロンドンから取り寄せた数々の珍奇な熱帯植物を育ててみるなど、輝くような武子の青春時代の描写は、こちらまで心躍るものがある。

兄光瑞が、欧州遊学と西域探検の後、明如上人の遷化(死去)を受けて帰朝してのちに、爵位局発刊の華族名鑑の記載と、本願寺の重職会議の度重なる討議の末に、武子の嫁ぎ先は、九條家の良致(よしむね)男爵と決まった。
当たり前のことながら、東京の九條公爵本邸の表書院での婚儀が、両者の初対面であった。
この結婚生活は、幸せなものではなかったようだ。
学究肌の良致は、武子その人にほとんど関心を抱かなかったように思える。
良致のケンブリッジ留学に合わせた欧州視察兼新婚旅行で早くも別居に近い生活を送り、3年の予定の単身留学は結局10年に及んだ。
その間、良致からは便りも滞りがちだったという。
二人の間には、当然のように子がなかった。
独り本願寺で夫の帰朝を待つ武子は、その間の苦しい胸の内を和歌に詠み、その歌集『金鈴』で歌人として高く評価された。
一方で、女性教育と布教活動に熱心に取り組み、美しく教養深い高貴な文化人として、武子は当代一の麗人と謳われる。

良致が留学を終え、東京の正金銀行に勤めると、武子は夫の俸給だけを収入源に、一介の中流階級の主婦としての生活を始める。
大正12年の関東大震災の後は、下落合の小さな借家で、罹災者の救援に奔走する一方で、朝夕に自ら食事を整え、大鋏や一輪車を操って庭の手入れをし、慈善事業の講演をこなし、空いた時間を使って雑誌に寄稿を続けた。
しかし昭和3年、過労が原因なのか俄に敗血症を発症、入院わずか一月で42年の短い生涯を閉じてしまう。
火葬場の裏手では、生前の武子に幾度も言葉をかけてもらったという「不具の乞食の群れ」30数人が、特別に許されて棺を迎えたと伝えられている。


以上が、山中峯太郎の筆による『九条武子夫人』の内容だ。
一種アンタッチャブルの人だから、書かれていることをそのままに受け取ることはないかもしれないが、当時のやんごとなき貴婦人としては、随分中身の詰まった人生を生きた人であったことは間違いないだろう。
そして、父大谷光尊の「華族の和子とか姫というのでなく、独り立ちで生きて行ける者に成人させる」という教育方針と、若き日の兄光瑞とその妻籌子という気質の似通った同士愛の濃い環境の中で、英雄的な兄の感化を受けて、一番美しい時期をのびのびと過ごしたことが、九條武子、いや大谷武子を希有な存在に作り上げたのだろうと思う。
九條武子については他にも読むべき本はたくさんあるのだろうが、偶然目の前に現れた、宝物のようなこの本を手に取ることができたのは、なんという幸せだろう。
この本と出会うきっかけを作ってくださったノンキーさんに、心から感謝いたします。

さて、次は何を読もう。



※3枚目の写真は、昨年6月、世田谷区美術館「暮らしと美術と高島屋」展で発見した、九條武子をモデルとした「明治美人」のポスターのポストカード。彼女が大正(明治)三美人といわれているのを、この時初めて知った。



※ 大谷探検隊について
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1346588339&owner_id=24016198
※ 別府での大谷光瑞
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1903267281&owner_id=24016198
※ 二楽荘と大谷探検隊
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1934319729&owner_id=24016198
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