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2013年03月03日16:09

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ヒョウスエさん

九州北部一帯にはヒョウスエとかヒョウズベとかヒョウセエとか呼ばれる妖怪がいる。いわゆるカッパのことをそう呼ぶ場合もあるが、手足がひょろひょろしたはげ頭で毛深い体のオヤジの姿の記録もあるので、もとはちがう妖怪らしい。ちょっときもいのであるが愛嬌もあるので、一部の妖怪ファンの人気者になっているらしい。

妙な名前なのであるが、一説によるとヒョウヒョウと鳴きながら空を飛んで行くのを聞いた人がたくさんいるらしく、それでヒョウズベなのだそうだが、いかにもこじつけっぽい。漢字で書くと兵主部と書くらしく、中国から来たらしき名称なのである。兵部大輔(律令制下の武官の官職らしい)の島田丸という人がカッパに化けた人形を退治したことからそう名付けられたということで、これで中国っぽい名称の由来は説明できるのだが、退治した人の官職を退治された化け物につけるのも合点がいかない(このカッパは元は人形であるという説には日本各地にも証拠があって、アイヌの神話にも出てくる。どういうわけで日本の南北両端の民間伝承が入り交じったのか興味深い問題であるのだが、それは脇に置いておく)。

さらにもう一説によると、兵主部というのは、中国からやってきた兵主神のことで、蚩尤(シュウ)と呼ばれる軍神のことである。シュウというのは中国では鍛冶の業のことで、鉄の兵器を発明した神なのだが、中国の始祖黄帝との戦いに敗れて殺されている。中国から伝わった神とはいえ、元はどうも異民族の神様らしく、今日の中国南部に住み鉄を兵器として用いる部族を制圧した河北の王朝により邪神にされてしまった形跡がある。歴史は勝者によって書かれるのは今日に始まったことではないのである。

でも、面白いことに、破れた蚩尤は中国で今度は兵主神と呼ばれるようになり中国で神として祀られる存在になる。漢の高祖劉邦なども蚩尤の旗を用いたらしい。戦いに敗れ戦犯として処刑された異民族の酋長を神として祀るというのは今日では解りにくい心理なのであるが、悪いことをする力があるが故にご機嫌をとって鎮める、もしくはその力を利用するという考えは日本にもあった。菅原道真とか平将門も人に害をなす力によって神の地位を得ている。害をなす神様はそれを行わないことによって益もなせるというのは暴力団の所場代のような論理ではあるが、力というものは良いことにも悪いことにも使えるが故に無視できないのである。カッパというのも古代の水神様の荒々しい側面が、水神から分離された上に零落し妖怪と化したのではというが柳田国男の説であった。カッパもヒョウスベも馬と因縁があるらしく、馬に害を与える話が多く伝わっている。つまり、古代の水神は益ももたらせば害も与える神であったのだ。

脇道に逸れたが、この兵主神信仰は日本にも伝えられて、西日本には兵主神社というのがたくさんある。祀られている神はオオクニヌシかスサノオであることが多いのだが、受容の過程で兵主神と日本の神が混交したらしい。この兵主神信仰が日本神話の神々に乗っ取られてしまって、兵主神が妖怪に零落した姿がヒョウズベであるかもしれないということだ。

これもありうべく話なのであるが、これだけだと兵主神がなぜヒョウズベになるのかわからない。ヒョウズベが兵主部だとすると、この「部」の説明ができんのである。部というのは所謂デパートメントのことで区切られた全体の一部である。人の集まりやら空間の一部なわけであり、もとは神様自身の呼び名ではなく兵主神を祀る儀式を司る人々やそうした人たちが集まる場所、という意味にも解釈できる。

ちなみに、兵主神信仰を日本に伝えたのはあの秦氏であると言われる。古代に日本に帰化した渡来人氏族である。いろいろと謎の多いハタさんのご先祖であるが、建築、土木、製鉄、コスモロジーなど高度な知識、技術を有する集団であり、その技能や財力が大和朝廷に重宝されて古代日本の発展に無視できぬ貢献をしたと言われる。百済から逃げてきた貴人の氏族であるとか、いや百済じゃなくて新羅だとか、秦の始皇帝の末裔だとかいろいろな説があるのであるが、定説はないようである。中には、イスラエルからやってきたユダヤ人であるとか、大秦、つまりローマ帝国から逃げてきたキリスト教の異端ネストリウス派であるとか、かなり眉唾の説もある。羌、つまり中国西北部に住んでいた遊牧民の打立てた五胡十六国時代の後秦王朝の末裔という説もある。蚩尤の姓は羌だという説もあるらしいので、秦氏がこの神を拝む理由は説明できるのであるが、これだと中国南部というこの神の出自が不明になる。

中国の『隋書』には、古代日本に中国と似た風習を持つ「秦王国」というのがあると書いてあり、これが今の筑紫平野の東から周防長門の当たりだと考えられる。渡来人といっても相当な人数の一門であることが大和朝廷の文書にも記録されおり、この氏族が住んでいた場所はさながら先進の独立王国のように見えたのかも知れない。この地域の豪族として栄えた秦氏は後に大和に進出し、またそこから全国へと散らばって行ったのである。

広末という名字がある。豊前国築城郡広末(現在の福岡県築上郡築上町大字広末?)が発祥の地とされる名であるらしい。この地域は朝鮮半島に近く、当時の先進地域であった半島と日本の交流の盛んな場所であり、早くから開けていたはずである。グーグルマップで見ると、今日広末と呼ばれる場所には今でも稲田が広がっている。古代の先進地域が現代の片田舎になってしまったとすれば歴史の皮肉であるが、当時は稲田というのが進歩の象徴でもあったはずである。

国土地理院の地図によると、広末という地名は全国に他にも五つ、六つあるのだが、全て北九州か山陽、つまり秦氏が勢力をふるったと言われる地方に集中している。一説によれば、広末というのは末が広がる地形のことであり、山から流れる川の下流に開けた平野をそう呼んだということである。でも、今日のいくつかの広末を地図で確認しても、そのような地形であるかどうか疑わしい。兵主神信仰が忘れ去られた後、文字を知らない地元の人々がヒョウズベとかヒョウスエと呼んでいたのを、後のちょっと学のある坊さんなんかがそれは広末のことだろう、いずれにしても末広がりで縁起がよい名である、というくらいの気持ちで当てた当て字ではないかと思う。

もう一つの可能性は、ヒロセという地名が転訛してヒロスエになった可能性である。瀬というのは渡れるくらい浅い川という意味だから、そうした川の脇に広い土地があればこれをわざわざヒロセと名付けて区別するのは不思議ではない。実際に、広瀬、弘瀬、廣瀬という地名は全国各地にある。でも、地図からはよくわからないのであるが、確かに広末も川沿いの村であったらしいものが多いのだが、広瀬と呼ぶのに適当な地形であるかどうかは疑わしい。

広末さんという名も、全国にたくさんいるヒロセさんの一変化として考えられなくもないのであるが、そうとは言い切れない理由もいくつかある。そもそも、ヒロスエがヒロセに縮まるのはありえるが、その逆は不自然だ。

豊前国の広末に住んでいた人々の末裔が今日大分県に多く住んでいるのも不思議ではないのであるが、もう一つ広末さんが多い県がある。高知県である。芸能人の広末さんも九州ではなく高知出身だそうである。

その土佐を支配した七豪族の一つである長宗我部氏の姓は秦氏である。聖徳太子に仕えた秦河勝が功あって信濃に領地を賜り、信濃秦氏が分家し、そこから更に土佐長岡郡宗我部郷に入って長宗我部を名のったのである。因に、土佐には広末という地名は無いのであるが、弘瀬という場所がたくさんある。地図で見る限りは、必ずしも地形を形容する地名ではないと思う。むしろ、秦氏について回ったヒヤウスヘさんたちがヒロスヘさんとなり、その人々が住んだところがヒロセになったのではないだろうか。

長く曲がりくねった話になったが、遠い昔、遠い土地を治めた異人の神が日本で祀られるようになり、その神はついには我が国では妖怪に零落してしまったのであるが、一方で日本の神々の名を借りて信仰され続けている。また、その異形の神を祀る儀式を司った人々の末裔はヒロスエさんとかヒロセさんとなり、日本人として平和に暮らし続けているのかもしれないという話である。妖怪と名を共にしているというのは全国のヒロスエさんたちにはあらぬ嫌疑であるかもしれないし、眉にいっぱいつばつけて聞いてもらいたい話ではあるが、せっかく調べただけのことを仮説としてここに書き付けておく。
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