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2011年05月01日15:13

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恋をする動物

愛と恋の違いは今日では忘れられがちなのであるが、実際の用法を見ても二つの言葉は微妙に使い分けられている。例えば、神さまは愛するけど恋はしない。恋に煩う神を想像するのは難しいのであるが、恋というのはそこにはない関係を手に入れたいと焦る気持ちなわけだから、場の創造主たる神には無縁の経験なのである。

つまり、恋をするのは、自分に欠けた何かを埋め合わせようという極めて人間的な行為であるといえる。ただ子孫を残すためにつがいを求めるという行為なら他の動物と同じなわけだが、人間の恋は雄雌の関係だけではないものがつきまとう。男が異性関係を性的関係と割り切りがちなのに対して、女性は異性関係の「スピリチュアル」な側面を強調するのであるが、これは正しいと思う。ただ、このスピリチュアルな側面がまた人間の厄介なところなのである。

さらに、前回の日記のように、もし恋が他人との関係においてそこにはない自分を実現させようとする行為であるならば、鳥のさえずりやボーイ・ミーツ・ガール的なものだけを想像しているわけにはいかない。恋と聞くと物知りがおでニヤニヤする分別のある大人が、人の恋沙汰にいらぬお世話を焼きたがったり不倫の恋に目くじらを立てたりするのは、恋と人間との厄介な関係を実は心の底では認知しているのである。

もし恋をそんな狭い限定から解放すると、数ある人間の定義に「人間とは恋をする動物」というものを付け加えられるかもしれない。若い男女に限らず、様々な人間は様々な人やモノに恋をする。そのうちの一部は「不倫の」という限定つきでないと恋として認められないし、恋という名さえも否定されている恋もたくさんあるわけである。ここに、むしろ厄介な人間性を社会的に無害なものにしておきたいという隠れた意思が働いていると思った方がよさそうである。

人間が恋をする理由は、神さまが恋をしない理由の反対である。人間は一人では自己を完結できないのであり、自己実現は他人との関係においてしか成就しないのである。人が恋するのは、人の愛が神の愛とは違って限りがあるからでもある。何でも受入れるような包容力のある愛を人間はもてないのである。

恋の真の対象が実は恋する相手ではなくまだ見ぬ自分であるとすれば、直接自分を愛せばよさそうなものだが、そうならないのには理由がある。独り善がりで満ち足りる問題であれば勝手に想像してなんでも好きなものになればよいのであるが、そんなものは個人の妄想にしか過ぎない。最終的には誰かにこの妄想を認知してもらうことにより新しい関係を築いて、その関係の上にはじめて「本当の自分」が現出することになるのである。

つまり、場に埋もれて失われた本当の自分などというものはどこにも存在しないのである。そのどこにもないものをここにあるものにするためには他人の助けがいる。その助けを求める外側の行為だけが恋をしているとして観察されるのである。でも、そこにない自分を求めているのは外から見える恋をしている者に限らない。むしろ、助けを求める対象を見出せずに自分だけに恋してもだえている人の方がずっと多いのである。中にはヒトに恋するのがコワいのか、モノやコトに恋をしてしまう人もいる。おそらく神さまという概念の機能のひとつは、現世に助けを見出せない人々の恋の対象になることである。

恋というものの根源的な衝動は自己中心的なものなのであるが、その実現には他人の力を必要とするというところに一筋縄ではいかないところがある。ひとたび恋に落ちると、二次的な問題であった恋の対象自体が前面に出てきて、それ自体が目的化されるのである。でも意思をもった人間を相手に選んでしまうと、その意思を無視していては恋は成就しない。自己中心的な恋は対象を力づくで征服しようとする衝動に転化したり、もしくは自己を捨てて絶対的な服従へ導いたりもする。でも、これでは恋の対象を自分が求めていたもの、つまり自由な意思で自分の価値を認知してくれる人とは違うものに変えてしまう。

そういうわけで、恋というのは自分の意思に沿って世界を作るというエゴイスティックな目的のために始められるわけだが、それがうまくいくと、それは自分を相手に合わせて作り替えることで終わるのである。もちろん、これは一方的なものとは限らないわけで、双方がそれなりに相手に応じて自分を変えて、それによって生まれた関係において今までいなかった自分が現出するのが普通であると思う。恋が人間に厚みを加えるのもこの点であると思う。でも、またそこに恋が悩ましいものである理由があり、自分の意思を貫徹できない人間と神との違いがある。

考えてみると、恋というものほど群れに対して個を妥協無しに主張する行為は他にあまりない。昔から人間は恋をしているはずだが、今日ほどの多くの人の関心事になったことがないように思えるのは、個の主張が無意味なものだったからなのだと思う。今日では、自己を自ら定義することを迫られる割には、場の拘束もなくなっていないない。それに、個人は場においてしか個人になれない。完全に孤立した個人は個としての意味を失うのである。結局、関係が存在するため最小限必要な二人という数を単位とするのが恋なのであり、これに無茶な期待が課せられているわけである。

そういう意味で、今日においては、何に恋するかほど人生において自分を左右する決断もあまりない。個の完成が人生の目的だとすると、それは恋をすることによってしか得られない。つまり、人生は恋をするために生きるものになっているのである。でも、人間が異なる意思をもつ個人の集まりである以上、自分自身への恋が一方的に受入れられることもない。人の一生が、恋をして、あきらめて、あきらめきれずにまた恋をして、なんていう名も無い英雄たちのペーソスの溢れる努力になるのもこのためである。そのうち疲れて、恋なんて若い連中に任せておこうということになるのだと思う。人間とは神からも獣からもかくも遠い存在なのである。
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