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2010年05月28日14:30

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繰り返す時間 過ぎ去る時間

空間や時間というのは客観的、つまり我々の意識とは独立して存在しているものと思いがちである。でも、今日の空間/時間概念は近代の産物らしい。ニュートンが物理学の前提にし、カントがまた先験的(つまり、経験によって得られたのではなくあらかじめ与えられた)知識としたのがこの絶対的な空間/時間なのである。

このニュートン的な均質で空っぽの空間/時間というのは、アインシュタインの相対性理論などによって部分的に覆されたらしいが、科学音痴の私にはなんのことやらわからない。でも、私のような凡人が見る日常生活においては、ニュートン的な空間/時間観念はまだまだ優勢で、その延長線上に、先日紹介した時計の針が刻む空っぽの時間がある。

いずれにしても、時計に象徴される客観的時間が普及する前の時間感覚というのは、現代人の我々がもつものとは違っていたわけだ。季節の移り変わりや昼夜でさえ選ばない時間の流れを刻む時計を参照にする現代人にはわかりにくいのだが、自らの経験から現象学的にそれを再構成してみるのは難しいことではない。

まず、時間というのは繰り返しである.毎日お日様が昇って沈み、また昇る。時計の針も12時間ごとに元の場所に戻って、また同じ運動を繰り返すのは、この天体の動きを表象しているのである。我々の身体に組み込まれた生物時計もまた繰り返しであり、食っては腹が減り、また食っては腹が減るし、寝て起きては、また眠くなり床につくわけである。

同じように、一年もまた四季が巡り、暑くなってはまた寒くなって、またもとのところに戻ってきては、同じ循環が繰り返される。オフィスワークとは違って農業においてはこの自然のリズムというのが重要であり、暦というのが農業社会では今日以上に重要な役割を果たす。

でも、この繰り返す時間にかぶさる形で、過ぎ去っていく時間がある。一日単位だとわかりづらいけど、我々はこの瞬間にも歳をとっている。人生というのは、生まれて、成長して、老いて、死んでいくことであり、過ぎ去った時間は取り戻せない。「今現在」と口に出したとたんに瞬間にそれは過去になり、未来が現在になるわけだ。「光陰矢の如し」という言葉があるけど、真っすぐに飛んでいく「矢」というのがこの過ぎ去る時間のイメージである。

繰り返す時間が時計に見られるように「円」の運動であるのに対して、過ぎ去る時間は矢の軌道のように決して交わることのない「直線」であると言ってもよい。

個体の生から死に至る直線の時間も、今度は共同体というレベルでは円い時間に包摂される。つまり、人は子を産み教育を施し、共同体を再生産する。人が生まれて子を産み育て死に、またその子が子を産み育て死に、その子がまた子を産み育て死んでいくという循環である。

さらに長い歴史で見ると、この共同体(村でも民族でも文明でもいいけど)もまた直線的な時間に組み込まれている。つまり、共同体もまた生まれて、盛衰を経て、消えていく。つまり、共同体は同じことの繰り返しだけで成り立っているのではない。今あるものの再生産に加えて、新しいことことを付け加えていく。これが蓄積されていく過程を「進歩」とか「発展」と呼び、その成果を「文明」などと言ったりする。新しいことが付け加えられなくなれば「停滞」だし、過去の遺産で食いつなぐようになると「衰退」である。

さらに視野を広げれれば種のレベルに行き着くが、人類も長い目で見れば時間の経過によって盛衰を経て死に絶えるものかもしれない。

異なる時間が何重にも重なるのは、自らの死を事前に意識して、個体の人生を越えた記憶を保存しようと共同体を形成する人間ならではなのだが、この共同体自体に再生産という円い時間と盛衰という直線的な時間が同居している。このため、いかなる宗教や社会理論も異なる時間の流れと共同体の関係を説明する必要に迫られるのであるが、そのどちらが強調されるかは共同体の安定か変化かという極めて政治的な問題と関連してくるのである。
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