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2009年06月20日02:07

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男は女である

論理には「主語の論理」と「述語の論理」があるそうだ。

いくつかの本でそういう話に接したのだが、何度読み直してもわかったような気がしないので、書きながら考えてみた。読みたい人はマユツバでどうぞ。

アリストテレス以来の西洋哲学が基礎としてきたのは「主語の論理」なのだそうだ。

例えば、形式論理学に三段論法というのがある。
大前提:A=X
小前提:B=A
したがって、
結論:B=X
といった具合である。

もうちょっと具体的な例にすると、
大前提:男は嘘がうまい。
小前提:私は男である。
結論:私は嘘がうまい。
という風になる。

この三段論法が成り立つのは、大前提の主語(「男」)と小前提の主語(「私」)が同一(私=男)だからである(より厳密には、「男」という範疇に「私」は含まれる。数学記号を使えば、男⊃私)。

これに対して、述語の論理の一例をあげれば、
大前提:A=X
小前提:B=X
結論:A=B
となる。

具体的な例では、
大前提:女は自分勝手である。
小前提:私は自分勝手である。
結論:私は女である。

大前提と小前提の述語(「自分勝手」)が同一なことから、主語の同一性が導き出されるのである。

でも、ちょっと待て。

どう考えても、上記の例の結論(私=女)は真ではないように見える。

自分勝手な男も女もいるけど、男は女じゃないし、女は男じゃない。

でも、「述語の論理」というのが近年見直されているのは、まさにそういうところにあるらしい。


主語の論理というのは、主語の中に述語を包摂していく。

例えば、私は「男」、「日本人」、「学生」、「父親」、「美貌の持ち主」などなど、いろいろな述語がとれる。

逆に「男は私である」とか「日本人は私である」とは一般的には言えない。

そして、あなたが「日本人」であることはわたしと同じであるが、「女」、「母親」、「不細工な容姿の持ち主」かもしれない。

いくつかの共通の述語をとれるとはいえ、私とあなたは完全には同一にはならないのだ。

それは私とあなたは別々の存在だからだ。


これが主語の論理なのであるが、これに対して、述語の論理というのは述語が主語を包摂していくものである。

男も自分勝手だし、女も自分勝手。日本人も中国人もアメリカではマイノリティだし、アメリカ人だって日本や中国に来ればマイノリティ。

ちょっと形而上学的でわかりにくいのだけど、この述語の論理の存在論を突き詰めていくと、述語にはなれて主語にはなれないものというのが現れる。

それは、まさにすべてのものを含む「場所」としてしか捉えることができない。

わかりやすいように、まずは主語になれて述語になれないものを考えてみる。

それは全ての事物(「私」や「あなた」、「男」や「女」、「日本人」と「日本人でない者」、「悪人」や「善人」、果ては「魚」や「石ころ」や「犬のウンコ」まで)を含む主語でないとならない。

そんなものを表現する言葉はないのであるが、「神」というのが多分それに近い。

この世の事物は全て神の意志の現れであり、神は全てのものにはなれるが(=主語になれる)、個別のものは決して神にはなれない(=述語になれない)。

述語にしかなれないものを考えるのはもっと難しいのであるが、それは「神」のような主体性を持ったものではなく、「コスモス(宇宙)」のように世界に存在する全てのものが生成する「場所」であると言える。


こんなややこしい形而上学に果たして意味があるのだろうかと疑問を抱く人もいると思う。

でも、この二つの論理の違いは、我々が無意識のうちに前提にしている世界のイメージと密接に関連しているらしい。

西洋文化、そして現代の日本文化は、主語の論理で世界を捉えている場合が多い(中村雄二郎という哲学者は、日本語には述語の論理があると指摘しているけど、私には理解不能)。

話を簡単にするために人間社会だけに限って、主語の論理から社会をイメージすると、多分次のようになる。

我々個人は、統一された主体として存在している。

それは点のように、外の世界には閉じられ、内部に空間を持たない。

我々は固いビリヤードボールのようにぶつかっては散ってゆく。

異なる利害や価値観を持った個人という主体が集まった社会というイメージは近代経済学やゲーム理論でおなじみだし、国家や民族が主体として関係する国際関係論も主語の論理で動いている。

でも、理論に限らず、我々の日常の会話でもそれが反映されている。

例えば、「男は立って小便をする」とか「男なんだから泣くな」。

「日本人は気を使いすぎて損ばかりしている」とか「シャイなのは日本人だから」。

これらに対して、「女は座って小便をする」、「女はすぐ泣く」、「中国人は図々しくて恥を知らない」、「アメリカ人はオープンな性格である」なんてものが対置できる。

こうした言明では、主語になるものの存在(「男」、「女」、「日本人」、「中国人」など)が前提となって、主語を限定するもの(主語の一側面となるもの)が述語というかたちで連なっていく。

「男だから」、「日本人だから」という言い方の背後には、異なる述語のセットを持つ個別の主語=主体の存在を前提とする主語の論理が働いているのだ。

平たく言えば、「人それぞれ違うんだから」というのが主語の論理なのである。

それに対して、述語の論理は「場の論理」とでも呼べるものである。

この「場」には二つの意味がある。

ひとつは、我々が住む空間というのは、点としての個人が存在する均質な空間ではなく、それ自体意味を持ち、内部的に分化した空間である。

これも抽象的でわかりにくいけど、例を挙げれば、教会などの聖なる空間に入る時は、信者ではない観光客だろうと帽子を脱ぐことを要求される。

これは、帽子をかぶっている人の個人的な属性とか選択の問題ではなくて、場所の属性による(誰でも教会では帽子を脱ぐ)。

別の例では、海外から帰ってきて、空港の入管を越えたところで、我々は日本に「帰国」したことになる。

その境界を越えれば、そこは日本語が話され、日本の法や風俗習慣が尊重される世界になり、外国人だろうがそれを受け入れなければならない。

場自体が意味を帯びた空間であるということは、そこに集まる人如何に係らず、場がそこにいる個人を限定するということである(マイアミのエレベーターがたまたま日本人に占められて日本語で会話が行われても、そこは「日本」にはならない)。

主語の論理のイメージでは、場所は均質で空っぽな空間であり、その属性は集まった個人の属性いかんで変化するのに対し、述語の論理では場所があってそれから個人の属性が決まるのである(例えば、教会では全ての人が「帽子を脱ぐ人=神聖なもの権威に服する人」になる)。

第二の「場」の意味は、我々の自己自体が統一された「点(空間的広がりを持たない)」ではなく、ひとつの「場」を形成しているということだ。

わかりにくいけど、一例を挙げれば、痴漢を厭わしい行為と思う自分がいる一方で、ちょっとやってみたいと感じる自分が心の奥底にいる。

もしくは、男らしく振る舞う自分の心の奥底に押し込められた「女々しい」部分がある。

「葛藤(文字通りとれば、カズラや藤のつるがからんでいること)」なんていう言葉が示す通り、我々が意識的に何か判断する際に、そこにはカズラや藤のつるのように明確に分離できないたくさんの自分を見ているはずだ(そうでなければ、判断する必要はない)。

道に落ちている財布の中身を頂戴しようかどうか悩むような自分の良心と欲望が天使と悪魔として現れる表現があるけど、それも「葛藤」の一例だ。

判断とは、こうした葛藤を「断つ」、すなわち絡みあったつるを切断することにより解きほぐすことである(ちなみに、この「断つ」とか「切る」という行為の持つ暴力性とジャック・デリダの(書き)言葉の暴力には相通ずるところがある)。

また、「反省」というのは、自分自身をまた外から眺める自分がいるわけだ(「オレ、なんでこんな事やってんの?」という奴)。

つまり、分裂した自分がたくさんいるわけで、自己というのはたくさんの自分を包む「場」のようなものということになる。


場の論理で社会をイメージするのは難しいのだけど、バラバラの点ではなく、境界線が不明確な円になり、それが相互に重なりあっているような図になると思う。

その意味するところは、我々の自己というのは相互に浸透しているし(何処までが自己でどこまでが他者なのか不明確)、円は点と違って内部に空間的な広がりを持つ(どれが本当の自分なのか不明確)。

私が「日本人」であるのは「日本人ではない者」がいるからであるし、私が「男」なのは「女」がいるからであるし、「美貌の持ち主」は「不細工な者」がいるからであるし、「善人」なのは「悪人」がいるからである。

でも、同時に、「日本人ではない者」、「女」、「不細工な者」、「悪人」である私が自己の内部にある。

自己の内に「不細工な者」を見ていなければ、化粧したりお洒落したりして美しくなろうとするはずがないし、自己に「悪人」を見い出さない人が良い人になろうと努力したりするはずもない。

自己と他者の違いは客観的に存在するというより、意志により境界線を引くことによってしか成り立たないものなのだ。

しかも、この主語上の分類というのは、場によっては意味を失ってしまうこともある以上、不必要に普遍化するとバカげたことになってしまう。

男である私も女であるあなたも、泣くことがある。

「男は泣かない/女は泣く」なんて区別を普遍化してしまうと、男が泣いた途端に「男」でなくなってしまう(理屈上は、決して泣かない女がいれば、それは「女」ではなく「男」)。

「敵」と「友」というのもそれぞれの属性ではなくて「場=相互に定義しあう関係」なのだから、場面が変われば(新たな「敵」の出現など)、昨日の敵は今日の友、今日の敵は昨日の友、なんてこともざらにある。

場所が変わった時に(例えば、私が日本ではなく中国に生まれていたら、男ではなく女として育てられていたら)、私は今のままの私ではいられないはずだ。

更に、自己という「場」の奥底に何があるのかは、我々自身も知らない。

明日、私が痴漢をしてしまわないとか、同性に恋してしまわないと言い切ることができるだろうか。

100年後に日本が中国に併合されていたら、「日本人」であった人たちの末裔が中国の国旗や国歌に心の底から愛国心を感じていることがないと言えるだろうか。


以前、言葉は分割・分類するものと書いたけど(「判断」や「分析」という言葉に「断つ」とか「分ける」という字が含まれているのは偶然ではない)、最近場所の論理が注目されているのは、主語の論理では絶対化されがちな主体の境界線を相対化し、曖昧にする力があるということらしい。

以前に紹介した西田哲学というのが「場の論理」のひとつの例なのだが、西田は「絶対的他者(どう考えても自分ではない者)」の中に自己を見、自己の中に「絶対的他者」を見るなんて言い方をしている。

ジャック・デリダのようないわゆるポストモダンの思想とも通底するところがあって面白いのだ。
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