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2009年05月09日22:00

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嘘と政治とアクセス件数

体調崩して寝ていたのだけど、なにげに退屈なので暇つぶしに頭に浮かんだことを日記にしてみる。あまり厳密な議論じゃないから眉につばつけて読んでください。

ミクシィに「釣り」というのがあるらしい。

何を釣るのかと思っていたら、わざと日記に挑発的なことを書いて、コメントを書き込ませるものらしい。

そうして、可哀想な人たちを論争に巻き込んだり、コメントとかアクセス件数が増えるのを見て喜ぶのが「釣り」らしい。

そういえば、こいつ本気でこんなこと書いているのかな、なんて日記を時々拝見するけど、実は私のような間抜けが「釣り」の対象になっていたのである。

私自身はアクセス件数にはあまり関心はないけど、やっぱり自分が書いた日記が読んでもらえているのか気になる。

会心の出来だと思った日記に何もコメントがつかないと、結構落ち込む。

それでわざと挑発的な題名をつけたりすることもあるから、私自身も「釣り」をやっているわけだ(あまり釣れたことないけど)。

人の気を惹くために「嘘」と紙一重ようなことを書いていると言われても仕方がないかもしれない。

なんてこと言うと、「けしからん!」と怒る人と、「何をバカなことやってんだ、暇人ども」と突き放す人がいると思うけど、ベリーボタンがツイストしている私がそんなありきたりの結論のために日記を書いたりしない。



以前日記でも書いたけど、欧州言語で「政治(ポリティクス)」という言葉の語源は古代ギリシャのポリス(都市国家)にある。

そこでは、公の場でのスピーチが重視される。

結婚式でいやいやスピーチをやらされるくらいの現代人にはわかりにくいが、一般の市民が人前で演説をぶって仲間を説得することがもともとの「政治」の意味。

しかも、ギリシャ人はこの意味での「政治」をもっとも人間らしい活動領域として捉えていたのだ。

これが、都市国家に代わって巨大な帝国とか国家が現われると官僚的統制が市民による自治の領域を縮小し、「政治」は「行政」に取って代わられる。

素人が談義をして物事を決めていくのではなくのではなく、専門家が「正しい知識」を用いて素人を統治管理していくのである。

でも、最近では、現代の民主主義というものにおいてもこのスピーチによる合意形成というものが欠かせない要素であるという学説が勢いを得ている。

ネット上の目立ちたがり屋さんたちは、実はこうした本来の「政治」を実践していると言えなくもない。

そこで疑問が生じる。

政治(=公の場の討論)で「嘘」は許されるのだろうか。

すなわち、自分が本当だと思ってないし、実践する気もないようなことを同胞にさも本当のことのように話してもよいのか。



常識的に考えると、「ウソはいかんよ、ウソは」となるのだけど、その考えをもう少し厳密に理論化したのがユルゲン・ハーバーマス先生。

彼の理論はとても難解なのだが、無理矢理わかりやすくすると次のようになる。

言語には、はじめから合意を形成する目的が備わっている。

我々が日常で会話する時に、互いに自分の考えを、相手に理解可能なことばで、論理的に、しかもしっかり根拠をつけて提示してくれることを期待しているのだ。

これを彼は「理想的な会話の条件」と呼ぶのだが、その一つに「誠実さ」を挙げる。

合意が形成されるような会話というのは、互いに嘘をついていないことを前提としているような会話であるということである。

もちろん、ハーバーマスは言葉が人をだますために使われることも承知している(彼はヒトラーの演説を聴きながら育ったのだ)。

でも、それは合意を形成する目的という言語本来の目的に寄生するものでしかない。

我々が言葉で人をだませるのは、そこに理想的な発話条件が前提にあるからだ(例えば、皆がウソを前提としている世界では、人をだますことは出来ない)。

この合意形成という目的は文化を越えた言語の属性だから、「理想的な会話環境」が満たされる時には、理論上は価値観の違い(文化、宗教、イデオロギーの違い)を越えて合意の形成が可能なのである。

にわかには信じがたい理論なのであるが、そういう疑問を発する人にハーバーマスは言う。

「ウソだと思うのなら、俺の理論を反駁してみろ」

で、反駁しようとすると、結局我々はハーバーマスが理解できるような言葉で、論理的に、根拠を示して、自分の考えを伝えることになる。

つまり、彼の理論を反駁することにより、彼の理論を実践してしまうのだ。

こうした見方から言えば、「ウソはいかんよ、ウソは」というのは、嘘によって合意の形成が難しくなるからである(例えば、デマゴーグというのは、嘘や情報操作によって世論を一定の方向に導く人のことであるが、それは往々にして社会の分断を生む)。

ハーバーマスにとっては嘘のみならず、レトリック(話す内容ではなく言葉の操作により相手の意見に影響を与えようとするもの。「マスゴミ」とか「売国奴」みたいなのもそう)も御法度である。



これに対して、私の日記にもたびたび登場していただいているハンナ・アレント先生。

曰く、「政治に嘘?全然オッケー」

アレントにとって、公の場というのは自分のありのままを晒すところではない。

そこは劇場の舞台みたいなものであり、人々は仮面をかぶって演じることを期待されている。

「個人」としての素顔はプライベートな領域に置いてきて、公の場では皆「市民」の仮面をかぶってカッコつけるべきだというのだ。

言ってみれば、公の場での発言は多かれ少なかれ「虚構」の部分があるのだ。

アレントにとって政治は合意形成というより闘争の場である。

でも、闘争というのは正義とか金とか権力ではなくて、同胞の市民の賞賛をめぐる争いである。

そこではやはりスピーチが重要なのであり、人の心を揺り動かすことばを語れるものが勝つのである。

デマゴーグだろうがなんだろうが、人心をつかんだ者の勝ちということである。

このアレントの「政治と嘘」の問題に対する考え方は、きわめてマキャベリアンに見える。

そして、それはある意味正しい。

アレントはマキャベリ同様、「政治の自立性」というのを重んじた思想家である。

すなわち、政治という領域は道徳、経済、宗教、美学、科学といった領域からは切り離されたものであるべきだということだ。

でも、こんなにしてまで何故「政治の自立性」を保たなければならないのか。

理由は、「政治」というのは「自由」の領域だからだ。

「自由」というのは、選択の余地があるということである。

選択の余地があるということは、そこには答がひとつではない問題がなければならない。

政治の領域とは経済的必要とか道徳的価値観とか科学的真偽とか美学的美醜なんてもので答えが出てはならない場で、聖職者だろうが道徳家だろうが学者だろうが芸術家だろうが、一人の市民としての資格しかもたない。

いくら正しいこと、美しいこと、真であることを言ってようと、市民の共感を得られない人たちは政治的には無能なのである。

政治の場における基準というのは、市民の間の間主観的な合意、つまり市民が互いに「その通りだ」と思ったこと以外にはない。

じゃあ、ヒトラーのようなデマゴーグが出て来て、人民を煽動してしまったらどうする?

アレント自身、ナチスが政権を取ると、ドイツから亡命を余儀なくされている。

これに対するアレントの回答は、ちょっと悲観的だ。

つまり、以前に日記で書いたジーザスの「赦し」である。

嘘さえも許容する弁論合戦は、政治共同体を分断するような争いに発展してしまうかもしれない。

そうなったら、我々はとりあえず過去を水に流して、関係をリセットするしかない、と言うのだ。

でも、そこまでして人心をを掴むスピーチにこだわる意味っていうのはどこにあるのだ?

アレントにおいては、それは人間の不毛な存在に対する唯一の慰めみたいなところがある。

人間というのは、生まれて、死なないために生きて、それでも死んでいくだけの存在だ。

生きるというのは必要に迫られてやるものである以上、そこに自由はない。

生きるための必要を満たす領域で話されることばは、突き詰めると「〜しなさい」とか「〜する必要がある」という直接・間接の命令以外の何ものでもない。

こんな不毛な生から逃れる唯一の手段は、そうした生きるだけの領域から脱してスピーチを通じて自由な市民を演ずることである。

しかも、そうすることにより、伝説とか記念碑となって、死後も人々の記憶の中に生き続けることができる。

人生の意義というのは、生きるために汲々としている私的な領域から抜け出て、人様の前でカッコつけることによってしか得られないのだ。

そういうわけで、アレントにとって政治共同体というのは、どうせ死んでしまう人たちの人生を少しでも楽にするためじゃなくて、不毛な個人の生にそれを越えた意味を与えるために存在するものなのだ(だから、アレントは近代国家を政治共同体とはみなさない)。


で、嘘と政治とアクセス件数の関係。

政治という機会を失ってしまってスピーチ下手になってしまった現代人ではあるが、何となく自分の言うことに耳を傾けてもらいたいのもまた現代人(例えば、「便所の落書き」)。

そんな鬱積した人間的な欲求が、ネット上での「釣り」みたいな形で現われているのかもしれない。

で、スピーチに対する評価基準というのが以前であれば聴衆の数だったが、それが今では「アクセス件数」。

そう考えれば、アクセス件数を増やそうと努力する人たちを「バカだな」と笑ってばかりもいられない。

では、アクセス件数を増やしたいがためだけの「嘘」やレトリックはどうであろう。

最終的には、スピーチの内容を評価するのは聴衆である。

アクセス件数だけだと聴衆全体の数はわかるけど、拍手している聴衆と野次を飛ばしている聴衆、そして冷笑している聴衆の数はわからない。

でも、あまり下手なスピーチを繰り返しすぎると人前で裸を晒す露出狂と大差がなくなってしまうような気もする。

たしかに一瞬は人の注意は惹けるけど、そのうち飽きられてしまうかもしれないし、あまり有難くない伝説を残してしまって、後々まで笑われたりけなされたりするのかも。

それに、いちばん心を動かすスピーチというのは、聴衆の反射的な反応を引き出すのではなく、人々が「そんな非常識な」なんて思うようなこと提示しながらも、彼らの自発的な反省を促して説得していくようなものなのだと思う。

そうは言っても、まったく存在を無視されるよりはマシかもしれないから、ネット上にはあえて道化を演じる人たちがいっぱいいるのかもね。
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