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2009年04月23日01:19

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ワレワレ消費者

うちの近所にあるイトーヨーカドー。

久しぶりに帰国すると、こんな何の変哲もないスーパーに行くだけでもちょっとウキウキものだ。

懐かしいものや新製品を見つけて、一人で興奮して周囲のひんしゅくを買ったりする。

でも、金欠だから、あまり高いものは買わない。

こんな私にとって、ヨーカドーの親会社であるセブン・イレブンのブランド商品はありがたい存在である。

他の商品よりもお値段お安めだけど、中身は結構しっかりしている。

製造者を見てみると、森永とかポッカとか結構大手の企業の手になるものも多い。

製造者側としても、個別の商品の広告費もいらないし、黙っていてもセブン・イレブンとかイトーヨーカドーの店頭に並べてもらえるのだから、持ちつ持たれつなのかもしれない。

消費者だけじゃなくて、作り手も売り手もみんなでマル得みたいな、経済学の教科書に出てきそうなプラス・サム・ゲームだ。

でも、そんなうまい話ってあるんだろうか。



小売店ブランドの隆盛の背景には、小売店舗の大型化が進んで、製造業者に対して交渉力をつけたことがあるような気がする。

おじちゃんやおばちゃんがやっているような商店と違って、全国に大規模店を展開するチェーンのスーパーやコンビニは卸業者や製造業者に強気で臨める。

うちの義弟はインスタント・コーヒーの販売を担当しているのだが、大手スーパーやコンビニの店頭に商品を並べてもらうのは相当大変なようだ。

こんな小売業者から、「オタクの商品より安い単価でおんなじ商品を作ってくれたら、うちの商品棚に並べてあげるよ」なんて言われたら、なかなか断れないんじゃないだろか。

いずれにしても、安くてよい品を提供してくれる消費者の味方だから、まあいいかとも思えるけど、そう簡単な話ではないような気もする。



米国では、今やアウトレットの大型廉売店のチェーンが小売業の主流らしい。

日本では苦戦しているみたいだけど、アメリカみたいに一週間に一度買いだめするような人達にとっては、車でバーンと乗り付けられて、何でも安く揃うアウトレット店は重宝されるのだ。

でも、アメリカの小さな田舎町みたいなところにウォルマートが一軒できると、ほかの店は競争できなくてつぶれてしまう。

下手すると、町の中心にウォルマートがデーンと構えるだけで、あとは何にもなしみたいなことになるらしい。

今まで入手困難だったものが安く買えるようになって、消費者としてはありがたいはずだが、それですべてよしというわけにはいかない。。

他の店がつぶれて職にあぶれた人たちは、仕方がないのでウォルマートで働く。

でも、仕事はつまらないし、賃金は生活できないくらい安いし、社会保障なんかもない。

それに、景気次第で簡単にクビを切られる。

「消費者」としては得するけど、「労働者」としては損をするという、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかよくわからない状況が生ずるのだ。

ウォルマートというのは、従業員の福利厚生を犠牲にして低価格で消費者に尽くすというポリシーでのし上がってきた企業だから、余計にそれが目立つし、批判も受けやすい。

でも、「働く者に厳しく、消費する者に優しく」とか「ワレワレの幸せは消費者としての幸せである」というスローガンは国境を越えて広く共有されつつあるのではないだろうか。



以前、日本に住んでいた時、近所に豆腐屋さんがあった。

老夫婦二人きりで切り盛りしているような小さなお店だ。

有機栽培大豆を使った手作り豆腐なので、お値段はちと高め(一丁千円近くしたんじゃないかな)。

おいしい豆腐なのかもしれないけど、近くに大きなスーパーが二軒くらいあるし、あまり繁盛しているようには見えない。

近くのスーパーで安い豆腐が買えるから、たまには贅沢してあのお豆腐屋さんのこだわり豆腐を、なんて言える。

でも、豆腐があそこにしかなかったら、きっと湯豆腐とか冷や奴は高級料理になってしまって、庶民の口には入ってこなくなるのだろうな。

あまり「消費者」には優しくないお店なのであるが、だからきっと近い将来は消えていく存在なのだと思う。



日本でも最近「消費者庁」なんて役所ができることになったらしい。

今まで「生産者」の方を向いていた政府が「消費者」の方を向いてくれるのは嬉しい、と思うことになっているらしい。

でも、「消費者」というのは、労働を通じて「生産」にもかかわっているし、経済活動以外の場も必要としている。

安い商品を売るために企業間の競争が激化すると、効率の悪い人は職を失い、運良く職を維持した人はヘロヘロになるまで働かされるようになる。

その代償として「ワレワレ消費者」が得たのは、豆腐一丁の代金でそこそこの豆腐が五、六丁買えるようになったこと。

「いっぱい働け。そうすれば、いっぱい消費できる。」というのが今の社会の与えてくれる豊かさ。

「ワレワレ消費者」は、そこそこの味の食品をそこそこの値段で手軽に買って(セブン・イレブン・ブランドのピザ用のチーズは「モッツァレラチーズ」と「ゴーダチーズ」のブレンドですぜ)、それを味わう暇もなく大量に飲み込み続ける。

量的な拡大こそが進歩だと思えていた時代はこれでも良かったのだが、ふと気がつくと、なんか手段が目的化してしまっているような気もする。

安く海外旅行に行ったりディズニーランドで日常を越えた体験を気軽にできるようになった代わりに、垣根のナズナの花に気を止める人なんかあまりいなくなっている。

我々の経験は外延的には拡大(より多く、より高く、より早く、より遠く...)したけど、ひどく浅く表面的なものになっているような気がする。

量的拡大のために質的深化が犠牲にされる中、以前日記で紹介した日本在留の米国人女性が表現したような「広がり」に対する「深み」がなくなりつつあるような気もする。



「ワレワレ消費者」は一丁の豆腐の代わりに五丁の豆腐を食えるようになった。

モッツァレラチーズとゴーダチーズがブレンドされたチーズをのせたピザやトーストを家庭で手軽に楽しめるようになった。

家にいながら世界中の映画やスポーツ中継が楽しめるようになった。

しかも、テレビの中の人が飛び出してきそうなほど画質がよいテレビで。

家にいるのに飽きたら、エスニッック料理を食べにいったり、ディズニーランドで非日常的な体験ができるようになった。

それでも飽き足らなければ、飛行機に乗って経験したこともない土地にも行けるようになった。

「ワレワレ消費者」は豊かなのか?
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