賽銭泥棒の記事を読んだ。
寺社にとって、賽銭は経営の根幹ではないのかもしれない。おそらく祈祷や祭祀の礼額のほうが、桁違いに大きいのではないかと思う。
だが、賽銭箱は単なる集金箱ではない。
神頼み、仏頼みで、藁にもすがりたい人に、希望や縋る先を――たとえ幻想であっても――差し出すために、一日中そこに開かれている。
だから私には、賽銭泥棒は単なる窃盗以上のものに見える。
それは、そうした善意や信頼をうまく利用し、踏みにじる行為だからだ。
これは、野菜の無人販売所から野菜や代金を盗むのと、同型の行為だろう。
他人の善意と良心を信じて営まれている仕組みを利用し、その前提そのものを壊してしまう。
賽銭泥棒もまた、そういう種類の破壊なのだと思う。
貧しい者ほど誠実で、救ってくれる者への感謝を忘れない――それが常に真実だとは限らない。
だが、そうであってほしいという願いの結晶のような作品が、山本周五郎『裏の木戸は開いている』なのだろうと思う。
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