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2026年06月26日05:48

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健全な肉体に、健全な精神は宿るのか

「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉は、スポーツを奨励する標語としてなら、ある程度の意味はあるのだろう。
けれども、人間を評価する基準として使うのは、私は違うと思う。

大阪の高校ラグビーの強豪チームで起きた暴力沙汰。
さらにさかのぼれば、アメフトの強豪大学での不祥事もあった。
こういう出来事を見るたびに思うのは、どんな人間集団の中にも、一定の割合でろくでもない人間はいる、ということである。
冷たい言い方かもしれないが、人間集団にもある種の統計的なばらつきは避けられない。人数が増えれば、平均から大きく外れた行動を取る人も現れる。
だからこそ、「うちの組織にはそんな人間はいない」という前提で考えるほうが危険なのだと思う。

そもそも、この言葉のもとのラテン語、ユウェナリスの
"Mens sana in corpore sano"
は、今よく言われるような、断定の標語ではなかったらしい。
むしろ文脈としては、「健全な肉体に健全な精神が宿るようにと祈るべきだ」という願いの言葉だったという。
つまり、現実をそのまま言い当てた言葉ではなく、そうあってほしいという祈りだったわけである。

それがなぜ、いつのまにか断定的な標語になってしまったのか。
この点については、19世紀イギリスのパブリックスクールや、近代オリンピックを推進したクーベルタン、さらには戦前のファシズム国家などが、若者を効率よく鍛え上げるための都合のよいスローガンとして利用した、という説明がある。
なるほどと思う。
願いの言葉が、いつのまにか規律と動員の標語に変わってしまったのだ。

そう考えると、ラグビー発祥の地であり、「紳士のスポーツたれ」と言われるイギリスのパブリックスクールにしても、その内部に陰湿ないじめや差別をする人間がまったくいなかった、などとは到底思えない。
どれほど立派な理念を掲げていても、それだけで人間が清く正しくなるわけではない。

一点の曇りもない清廉潔白な人間集団など、あるはずがない。
それなのに、こちらが勝手に「清廉潔白であるはずだ」という物語を当てはめ、そこから外れたときに勝手に失望する。
むしろ、その見方のほうがよほど危ういのではないかと思う。

しかも、「この組織にはそんな人間はいない」という建前を押し通そうとすると、組織の中には隠蔽やごまかしといった歪みが生まれる。
そして、その歪みが固定されていく。
不祥事そのものよりも、それを認められない構造のほうが、むしろ深刻なのかもしれない。

これはスポーツの世界に限らない。
教員でも、警官でも、僧職でも同じことだと思う。
社会的に「立派であるはず」とされる職業ほど、過剰な信頼がかえって組織を腐らせることがある。
人間はどこまで行っても人間であり、どんな集団にも弱さや醜さは混じる。
その前提に立たない理想主義は、かえって現実を見えなくしてしまうのではないか。


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