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2026年06月18日07:23

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物語のヒーローが本気を出さない(出せない)理由

今日は、少し面倒くさいことを考えた。
ヒーローやヒロインの能力をもっと縦横無尽に使わせたら、その物語世界はもっと良くなるのではないか、ということだ。

いちばん「なぜそこで終わるのだろう」と思った作品は、半村良の『岬一郎の抵抗』である。
もしあれだけの力があるなら、自衛隊や政府に追い詰められる前に、それらの組織の幹部の弱みを握るとか、あるいは恩を売るような形で十分な手助けを密かに行うとか、もっと別の動き方ができたのではないかと思ってしまう。
つまり「陰の支配者」として悪事を働くのではなく、その逆に、世界の仕組みそのものが生み出している不幸を、できるだけ減らしていく隠密のスーパーヒーローのような存在になれたのではないか、ということだ。

同じような物足りなさは、『とある科学の超電磁砲』などにも感じる。
たとえばレールガン、メンタルアウト、アクセラレータのような強力な能力者たちが本気で手を組めば、学園都市の外道な構造そのものを壊して、世界の構造的不幸をかなり減らせるのではないか、とつい考えてしまう。
もちろん作品としては、そう簡単にはいかないから物語になるのだけれど。

よく考えてみると、そこまで超絶的な能力ではないにせよ、ドラマ『大江戸捜査網』で杉良太郎や瑳川哲朗が演じていた隠密同心は、まさにそういう役回りだったのかもしれない。
表立って権力を握るのではなく、裏から悪をくじき、世の歪みを正そうとする。
あれは一種の「構造的不幸の除去」を目指すヒーロー像だったのだろう。

もっとも、岬一郎やレベル5の超能力者のような、あまりに強すぎる存在が本気でそれをやってしまうと、物語は長く続かない。
強すぎる主人公は、世界の問題を解決できてしまう。
だから作者は、能力そのものではなく、能力の使い方に制約をかける、たとえその制約が一見不合理に見えても。

問題が次々に解決されて、理想社会に近づいてしまうと、そこでの物語はといえば『サザエさん』のような世界になるのかもしれない。
大きな悪も革命もなく、毎日が繰り返される。物語としては平和だが、そこに波瀾万丈のドラマはない。
そう考えると、『サザエさん』は理想化された社会の物語なのだ、とあらためて気づかされる。
あるいは、登場人物たちが社会の本当の問題にはほおかむりしたまま、それでも日常が回っていく物語とも言えるのかもしれない。

強すぎるヒーローが本気を出しすぎると連載が終わってしまう、というメタ的な事情は、案外こういうところに表れているのだろう。



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