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2026年06月13日06:17

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尊厳死と安楽死の境界を考える

児玉真美『安楽死が合法の国で起こっていること』を読了した。

私個人の立場は、次のとおりである。まず言葉の定義から。
a 緩和ケア
b 尊厳死(延命治療の中止。消極的安楽死とも言われるが、私は言葉がややこしくなるのでその表現は使わない)
c 安楽死(積極的安楽死。医師が死に至らしめる)
d 自殺幇助(幇助者に個人的利益がもたらされない場合に免責されることがある。医療者に限る国もあれば、そうでない国もある)

これらについて、私は
a には賛成し、推奨する。
b は本人の明確な同意があるときに限って肯定する。
c とd は完全に否定する。
この立場は、6月4日の私のMIXI日記で書いた時と変わらない。

ただし、補足しておきたいことがある。
b についても、本人の明確な同意がある場合でさえ、なお微妙な線があると感じる。

たとえば、経管栄養や人工呼吸器を外す場面で、本人が拒否の意思を示したなら、直ちに延命治療の続行へ切り替えるべきだろう。
しかし、言葉を発せない本人の「イヤイヤ」という首振りを、尊厳死の中止を求めるサインとして、どこまで確実に読み取れるのか。
また、いわゆる「ベッド・ブロッカー」というひどい言葉があるように、その人が病床を占めていることで、入院予定の別の患者の治療が遅れるという現実もある。
さらに、書類上の「サイン」という形式が整っていることを盾に、医療側が予定どおり延命治療を中止しようとしたとき、それを有効に思いとどまらせることが本当にできるのか。
このあたりには、どうしても不安が残る。

また、b とc の境界についても考えた。
私は、延命治療の中止を意味する言葉として「尊厳死」を用い、言葉の散らばりを防ごうとした。
だが一方で、死に抗う自分の苦痛や不安を、子どもや配偶者に見せたくない、良い状態の時の自分だけを家族の記憶に留めておいてほしい、という気持ちは理解できる。
家族に与える経済的な負担、そして何より、自分を看取る家族まで精神的に苦しませてしまうのではないかという懸念もあるだろう。
そのため、臨死状態になる手前、まだ意識がはっきりしているうちに、自分の人生に自らピリオドを打つことこそが本当の「尊厳死」だと考える人もいるはずだ。

それでも、今の私は「生がある間は、死に抗え」と思っている。
その抗う姿を見せること。
たとえ家族のいない孤独な人であっても、その姿を第三者に見せることは、生きている者の責任の一つではないか。
その姿を見せるのは格好悪いから嫌だ、と拒むのは、わがままではないのか。
そして、そのわがままに付き合うために、ヒポクラテスの誓い――「故意に人を死に至らしめる薬を与えない」という誓い、あるいはそれに相当する医師の倫理――を破らせることは、やはり罪ではないかと思う。

自分のわがままを通すために、誓いを守って生きてきた善良な人の手と心を曲げさせる。
この行為は、少なくとも私という観測者の目には、「悪」にしか見えない。
だから、私が許容できるぎりぎりの線は、死に抗って戦い続けた人の最期の苦しみを和らげ、解放するところまでである。

本書で最も強く訴えられていたのは、「なぜ死にたいと思うほど苦しいのか」を、医療者が寄り添って理解しようとする姿勢の必要性だった。
これはまったくそのとおりだと思う。
ただ現実には、医師が過労死寸前に追い込まれるほどのオーバーワーク状態にあるなかで、その理想がどこまで実現できるのか、私は心もとない。
本来なら、この構造そのものを改善することが必要なのだろう。
しかし現実には、患者の側も、医療の側も、どちらも厳しい。
それでもなお、その理想に少しでも近づこうとすること、それこそが「善」なのではないかと、私も思う。

積極的安楽死が合法な国に、日本がならないことを、私は願う。いや、祈る。
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